彼とわたしの事情
みんなが思っているよりずっと、多分わたしは不器用なんだろう。
これまで生きて来て、クリフト以外に恋をしたことはないし、他の誰かをちょっとでも魅力的だと感じた事もない。
駆け引きなんて出来ないし、いつもおかしいくらい身体ごと全力投球。
でもそれは、どうやらクリフト自身にも言えることだったらしい。
月の差し込む小さな花園で、彼が落とした言葉は金色に輝いて、降り積もった花々の上に羽根のように柔らかく舞い降りる。
それは渇いてささくれたわたしの心に、まるで透き通る水のように優しく染み込んでいった。
本当は知ってる。
クリフトはお世辞なんて言わない。
懸命にわたしに想いを伝えようとする時、真剣になるあまり、もう婚礼を挙げてしばらく経つというのに、彼はすぐに「姫様」という呼び方に戻ってしまう。
だから気付いた。
そんな彼の不器用な物言いも、誠実で真っ直ぐな瞳も、こんな花なんかじゃ到底足りないくらい、愛しくて愛しくてしょうがないのは、
似合わないドレスを着たわたしでも、ちっとも料理の出来ないわたしでもない、ただの生身のアリーナ、そのものだったんだ。
「おかえりなさい、クリフト」
わたしは白いドレスの両裾を丁寧に持ち上げ、笑って頭を下げてみせた。
「首をながぁくして、お帰りをお待ち申し上げておりましたわ。あなた」
クリフトはびっくりしたように、目を見開いてわたしを見つめた。
それから一瞬ののち、唇を持ち上げて微笑むと、王の証である緋色のマントをそっと後ろに払い、その場に膝まづく。
なめらかな動作で厳粛に頭を垂れて右手を差し出し、蒼い目を悪戯めいた光で輝かせながら、真面目くさった口ぶりで言った。
「長のいとまをしてしまいました事、どうかお許し下さい、我が愛しいお方。
もしお許しあらば是非とも我れに、貴女様の高貴な御手にくちづける光栄を」
「いいわ、許す」
わたしはつんと肩をそびやかすと、クリフトの掌に自分の手を重ねた。
「なんなら、手だけじゃなくてもよくってよ。本当に十分に反省しているというのならね」
「は、心から」
「これからは、何日もわたしをほったらかしにしたりしないと、神聖なる王座にかけて誓いなさい」
「誓います」
「またこんなにずっと会えない日が続いたら、わたしもう……」
許さない、とふざけて気難しく顔をしかめてみせるつもりだった。
だが不意に、自分でも予想していなかった熱い感情の塊が込み上げ、瞼が涙で滲み、言葉が喉に引っ掛かってつまづく。
それを優しく掬い上げてくれたのは、日向水のようなクリフトの笑顔だった。
いつの間に覚えたのか、生まれながらの王族のように典雅な仕草でわたしの手の甲に口づけると、立ち上がって身体を屈め、前髪を指でそっとかきわけて、額に限りなく優しいキスをくれる。
深い海の色をした瞳。
彼方まで吸い込まれてしまいそうで、わたしは目を閉じた。
頬と、鼻先と、顎にキス。
また額に、優しい淡雪のようなキス。心臓が弾んだ音を立てる。
「逢いたかった、アリーナ様」
それから愛おしい囁きと共に、なによりも待ち望んだ優しい唇が重ねられる。
身体が揺れるような、目もくらむ幸福感に満たされながら、わたしは思い切り背伸びをし、クリフトの首に両手を掛けてしなやかな体を抱きしめた。
「ずっと、ずっと待ってた。
おかえりなさい、クリフト」
それからしばらくの間、久しぶりに再会した恋人同士(正確には、夫婦だけれど)だけの慌ただしくて、でもとろけるような甘い時間が流れたのは、みんなには目をつぶって、仕方ないなって許して欲しいと思う。
だってわたしは、クリフトが好き。
だから彼の全部が欲しくなるなんて、まるで朝の空に太陽が昇るみたいに神様が決めた当たり前の事でしょう?
「甘い香りが強すぎて、なんだか鼻がおかしくなってきちゃった。蜜蜂が集まって来ないのが不思議なくらいだわ」
色とりどりの花で埋められた寝台に、二人並んで横たわる。
鼻の頭に皺を寄せて、わたしがふうっとため息をつくと、クリフトは小さく声を立てて笑った。
「でも、大変だったでしょう。こんなにたくさんの花を一人でお集めになるのは」
「まあね」
わたしは得意げに言った。
「どんな絶世の美女だって、一人じゃ無理よ。こんな芸当、わたしじゃなくちゃ出来ない。それだけは自信を持って言えるの」
「確かに」
クリフトは楽しそうに頷いた。
「ただ、城お抱えの庭師は、明日の朝さぞかし真っ青になるだろうと思うわ。
花園でいちばん綺麗に咲いてる花を、全部わたしが摘んじゃったからね」
「花は、また咲きます」
クリフトが腕を伸ばして、わたしの髪についた花びらをそっと取る。
「春も、これから何度でも来る」
わたしはすぐ近くにある横顔に目をやった。
心地良さそうに閉じられた瞼。
だが以前より頬は削げ、元々細面の顔が更に小さくなったような気がする。
若さだけでは拭いきることの出来ない疲労や、国王としての精神的苦痛は、きっと無知なわたしなどには到底計り知れないほど、深く重く彼の中にあるのだろう。
(それでも、クリフトはクリフトだわ)
どんな時でもわたしはわたしなりのやり方で、ただひたむきに彼を想い続けていけばいい。
「ねえ、クリフト」
クリフトが静かにこちらを向く。
「お仕事の話を聞かせて。王様の仕事が、どんなに大変なのか。どんなことがとっても辛いのか。
クリフトの今やっていること、感じてること、知りたいの」
合わせた瞳の奥に柔らかな光を浮かべて、クリフトはゆっくりと微笑んだ。
「はい、アリーナ様」