彼とわたしの事情


例えば愛する誰かを癒したいと思う時、みんななら、一体どういう方法を取るんだろう?

父の部屋を出て、なんとなくとぼとぼと回廊を歩きながら、わたしは考え込んだ。

もちろん、ドレスの裾なんて相変わらず踏み付けっぱなしのまま。

腕によりをかけて、手作りのおいしい料理を振る舞う?

……自信無し。クリフトがお腹を壊すのが関の山だ。

宝石や化粧、肌もあらわな衣装できらびやかに着飾り、色っぽくしなを作って出迎える?

……向いてない。クリフトだって、何の仮装パーティーかと唖然とする事だろう。

(そうだ、旅をしていた頃のように、久しぶりに二人で組み手をするってのはどうかしら?)


頭の中でわたしとクリフトが向かい合い、身構えて間合いをゆっくりと詰める。

まず正面から飛び込み、手刀を打ち入れようとするわたしを、クリフトが身体を倒して避ける。

そこをすかさず回り込み、高々とジャンプして着地点に蹴りを入れる。

不意を突かれたクリフトが、バランスを崩してよろめく。

その瞬間を逃さず、上体をひねって拳を振りかざし、形のいい彼の顎を思い切り狙い打つ。

ぎりぎりで止めた拳にクリフトは目を見開き、永遠のような一瞬ののち、ふっと吐息をもらす。

そして微笑んで両手を上げて、こう言うのだ。

「参りました。相変わらず姫様はとてもお強い」

「当たり前だわ!このわたしには敵う相手なんて、世界中のどこにもいやしないのよ」

自信たっぷりに声を上げ、高らかに哄笑するわたし。笑顔は夏の花みたいに満開だ。

それを優しく目を細めて見ていたクリフトが、不意にわたしの身体をぐいと引き寄せ、耳元で甘く囁く。

「……でも、姫様がわたしに許してって言う時があるのも知っていますよ。

例えばこの間の夜みたいに、わたしが………したら、姫様は決してわたしには勝てない……」

「ク、クリフト!」

わたしは顔をぽっと赤らめた。

「駄目よ、こんなお昼から……誰かが見てるかもしれないわ!」

「かまわない」

熱い息が耳に寄せられる。

クリフトはわたしを抱きすくめて、妖艶に微笑んだ。

「姫様だってほんとうは、わたしにして欲しいんでしょう?

……ね、言ってみて下さい。我慢しなくていいから、

クリフト、もう一度……って」

「クリフト……」

わたしはうっとりと呟く。

「大好き、クリフト。

だから、も、もう一度……」


「何がもう一度なんです?」


突然目の前にカーラの不審げな顔がにゅっと現れて、わたしは仰天して叫んだ。

「きゃあああ!」

「いやあああ!」

釣られて悲鳴をあげ、カーラはごろりと後ろにひっくり返る。

そのまま柱にぶつかり、起き上がり小法師のように反転して戻って来ると、したたか打ち付けた腰を押さえながら苦しげにわめいた。

「な、な、なんなんですの!?

ぶつぶつ独り言を言っていたかと思えば、急に悲鳴を上げて、一体どうなさったというんですか、アリーナ様!」

「あ」

わたしは目をぱちくりさせて辺りを見回し、ようやく自分が現実に戻った事に気づいた。

「ご、ごめんなさい、カーラ。

ええっと、その……そ、そう、もう一度きちんと歯向かう家臣達への対策を練らないといけないわって、考えていただけなのよ」

「その割にはまるで酔っ払った羊みたいにとろんと赤くなっては、お独りで笑っていらっしゃいましたけれど」

「む、難しいことを考えるとわたし、頭に血が上っておかしくなっちゃうのよねえ」

はははと渇いた笑い声を上げて頭を掻くわたしを、カーラは呆れたように見た。

「全くもう……アリーナ様ったら、一体いつになれば気高く分別のある立派な王妃となって頂けるのですかしら。

わたくし、アリーナ様にお伝えしたい事があって、追いかけて参ったのです」

「なあに」

カーラは腰をさすりながら立ち上がって、にわかに表情を引き締めた。

「アリーナ様、今宵クリフト陛下が御成りになられます時、お部屋で一体どのようにご夫君のお迎えをなさるおつもりですか」

「へ」

わたしは口をぽかんと開けると、次に眉をひそめてまじまじとカーラを見つめた。

「……カーラ、まさか読んだの?わたしの心を」

「はあ?」

今度はカーラが口を開けてわたしを見た。

わたしは慌てて首を振った。

「な、な、なんでもないわ!

ちょうどそのことについても、きちんと考えておかなくちゃいけないと思っていた所なのよ」

もちろんそれで想像という名の妄想がむくむくと膨らみ、怪しげな独り言を呟いては笑っていたのだなんてことは、王妃の威厳にかけて内緒にしておく。

「でも知ってるでしょ。わたしはお料理も駄目だし、お洒落も一切駄目。

考えてみれば、いつもわたしがクリフトに喜ばされているばかりで、彼が喜ぶような事なんてこれまでなにひとつして来た事がないの。

お父様の所に伺った後、あわよくば本当に大臣達の所に殴り込んでやろうかと思ったけれど、どうやらそれもしないほうがいいみたいだし。

一体どうしたらいいものか、なにかいい案はないのかしら、カーラ?」

「甘い、甘いですわよ!」

カーラはずいと近寄って来ると眉を釣り上げ、人差し指を立てて左右に振った。

「カ、カーラ?」

「アリーナ様らしくもなく、どうして駄目だなんて端から決め付けてしまわれるのです!

確かにお料理もお洒落も一日にして成らずですわ。でも何も解らないからこそ努力を重ね、妻としてやるべき事があるはずでしょう!

どんなにお味が悪かろうと、陛下がアリーナ様のお作りになったお料理を、お喜びにならないとでもお思いですか?

どんなに似合わなくとも、美しくあろうと着飾られたアリーナ様を、陛下はきっと深い愛情を持って見つめられる事でしょう。

大切なのは努力するお気持ち。愛し愛されようとする、女性らしい真心なのですよ」

「どうも、引っ掛かる言い方ではあるけれど」

わたしは唇を噛み締めて、深くうなずいた。

「……解ったわよ。そこまで言うのなら、やってみせるわ!

クリフトの顎が落ちるくらい、とびきり美味しい料理を作って、目が合った途端鼻血が吹き出るほど美しくお洒落してみせるわ!見てなさい!」

「……アリーナ様、顎ではなくて、頬っぺです」

「そ、そう、それよ!」
4/9ページ
スキ