彼とわたしの事情
わたしをよく知るみんななら、もう解っていることだと思う。
向かった先は当然クリフトのところではなく、事態を手をこまねいたまま見ているだけだという父、アル・アリアス法王の所だった。
「お父様っ!」
扉を乱暴に開けると、ディヴァンにもたれまさに何度目かのお茶を楽しんでいた父が、眉をひそめてわたしを見た。
「なんだ、騒々しいのう。だがお前のことだ、そろそろ噛みつきにやって来るだろうなとは思っておったわ」
「解っているのならなんとかしなさいよ!」
「アリーナ様!」
慌てて追いかけて来たカーラが、金切り声をあげた。
「ほ、法王様に向かって、なんというお口の聞きようを」
「よい、カーラ。わしも一度、アリーナとは忌憚なく話しておかねばならぬと思っていたところだ。
お前は下がっておれ。それから近いうちアリーナに、ドレスを着た場合の淑女の歩き方というものを教えてやってくれんか。
見よ、繊細なレースの裾が、踏み付けすぎてこんなにひどく破れておる。この調子では高価なドレスが何枚あっても足りぬぞ」
「し、承知致しました。大変申し訳ございません!」
カーラは平伏した。
「わたくしがついておりながら、面目次第もございません」
「気にするな。アリーナに作法を教えることは、野を駆ける獅子に言葉を教えるようなものだ」
父は肩をすくめた。
「婚礼を上げてから、これまで大人しくしていたのが、不思議なくらいだったからな」
「大人しくしてたんじゃないわ。元気がなかったのよ!」
わたしは父を睨んだ。
「新婚の夫には全く会わせてもらえず、お城に閉じ込められては日がなお茶を飲んでるだけ。こんな暮らしで、騒ぎを起こす気になるはずもないじゃない。
きっとクリフトも弱ってる。わたしに会えなくて、今頃すっかり参っているはずよ」
「これはまた、ずいぶんと夫の愛を得ている自信があるものだ」
父は面白そうにわたしを見た。
「暴れ馬のようなお前でも、そのへんはちゃんと女性らしい感覚を持ち合わせているのだな」
「なによ、獅子だの暴れ馬だのって!」
わたしは頬をふくらませた。
「わたしだってごく普通の女の子よ。恋もするし、好きな人に会えなくて落ち込んだりもする。みんなそこが解っていないんだわ」
「ま、お前がごく普通の娘かどうかは別として、クリフトと深く想い合っていることだけは確かなようだ」
父はカーラを振り返った。
「カーラ、ボールスにクリフトの今宵の政務を取りやめ、たまには一晩ゆっくり休養させてやれと伝えよ。
熱心なのはよいが、根を詰めすぎて体調を崩してしまうのも、君主としては失格だ。
第一、いとしい妻との新床を冷やしてばかりでは、健やかな世継ぎを授かることも叶わぬだろう」
「御意にございます」
カーラは深々と頭を下げ、微笑んだ。
「陛下もさぞかしお喜びになられる事でございましょう」
(クリフトに会える)
(やっと今夜、クリフトの顔が見られるんだわ)
「そ、それより」
喜びに弾む心を無理矢理おさえ、わたしは早口で言った。
「クリフトが年寄りの大臣たちに反発を受けているって、本当なの?
だとしたらどうしてお父様は、それを放っておくのよ!」
「何を言うか。わしは既に引退した身だ」
父は暢気そうに、七宝焼の器から練り飴を口に運んだ。
「そんな、人ごとみたいに!」
「文句を言う奴には言わせておけばよいさ」
父は肩をすくめた。
「老いたりといえどもサントハイムを支えて来た忠臣達、そこまで愚かではない。
奴らは見ているのだよ。反駁し、宮廷内に混乱を巻き起こすことで、若き新王がどのような手腕を見せ、この場の収拾を着けるのかをな。
幼い頃からクリフトに目をかけ可愛がって来たわしとは違い、大臣らは未だ新王を、アリーナの従者だった単なる神官としてしか認識しておらぬ。
ちょうどいい機会ではないか、あやつの才覚を皆の前で発揮するなによりのな。
わしは信じている。クリフトの優れた知己、分け隔てない深い慈愛の心、あやつほど、実は王に向いておる者はおらぬよ。
だから直系のお前ではなく、夫のクリフトをわざわざ後継者に選んだのだ。
攻撃的で無鉄砲な王は一見魅力的ではあっても、結局は国を乱す種としかならぬ。
真の王とはクリフトのように、大地に根を張る大樹のごとき穏やかさを持ち、いざとなれば、自身を犠牲にしてでも民を守る強い勇気も持ち合わせているもの。
聖職者であったということで、しばらくはつまらぬ輩の批判を受ける事もあろうが、そのようなことは、国を統べる施政者として務めて行く事に比べれば取るに足らぬことだ。
クリフト自身が一番よく解っているはずだろう。
安心しろアリーナ、お前の夫はお前が思っているほど、もろく打たれ弱い男ではない。
だからこそわしはあやつにこの国を、そしてなによりも大切な娘を、譲り渡したのだからな」
「お父様……」
わたしはしゅんとして俯いた。
「結局わたしは、クリフトのために何の役にも立てないって事なのかしら」
「そうは言っておらんさ」
父は目を細めてわたしを見つめた。
「逆境の中で戦わねばならぬ時、男にとって愛する女の存在がどれほど力を与えてくれるものであるか。
わしもまだ即位したての頃、同じように古参の大臣たちの厳しい洗礼を受けた事があった。
夜更けに疲れ切って部屋に戻ると、いつもフィオリーナが優しく出迎えてくれたものだ。
ご苦労様でしたと微笑んでは、蜂蜜酒をたらした香り高い茶を手づから入れてくれた。
疲れていたから、その甘さは体じゅうに染み渡るように感じたよ。
フィオリーナがいなければ、わしはあの大変な時期を乗り越える事など、決して出来なかっただろう。
アリーナ、お前も妻としてどのようにクリフトを支えてゆけばよいか、お前にしか解らぬやり方が必ずあるはずだ。それを思うがままにやればよい。
他の奴らがどう言おうとクリフトはきっと、そんなお前を愛おしく感じる事だろう」
「お父様」
わたしは胸をつかれ、顔を赤らめながら呟いた。
「その……ありがとう」
「なにしろ、この厄介なお転婆娘に惚れ込んだ世にも奇特な男だからな」
父はくっくっと肩を揺らして笑った。
「あやつもやはり、普通の男とは魂の色が違うのだ。
わしはあやつが好きだよ。譲位を告げた時は、非常に動揺したようだったが、すぐに心を決めたらしく、即位式の際は迷いのないすっきりとした顔をしておった。
新王のもと、サントハイムは更に平和なよい国となるだろう。
わしらは黙って、それを見守ろうではないか。
なあ、娘よ」