The Name of Love
「ねえ、クリフト」
祭壇横の椅子に腰掛け、明日歌う讃美歌の譜面を眺めていたクリフトは、振り返った。
「なんでしょう」
「お前はどうしてクリフトなの」
傍らの文机に頬杖をつくアリーナを、クリフトは口を開けてまじまじと見た。
「……はい?」
「クリフトって、サントハイムでは割と珍しい名前だと思うのね」
恋人の困惑を意に介さず、アリーナは小鹿のように大きな目をしばたたかせて言った。
「例えばクリストフ、クリスティアーノ、クリスチャンセン。
<神の恩恵を受けた者>という「クリス」を戴いた名前は、世の中にたくさんあふれてるわ。
でもお前は、クリフト。ただのクリフト。良くも悪くもクリフト」
「……わたしはここで、怒るべきなのでしょうか」
クリフトはため息をついて、尖筆で羊皮紙に描かれた譜面を畳んだ。
「名付けてくれた父も母も、すでにこの世におりませんから、尋ねるすべとてないのですが、
たしか一度だけ、聞いたことがあります」
「名前の由来を?」
「はい」
クリフトは視線を宙に向け、こめかみにそっと手をあてた。
もう忘れかけた古い思い出のありかを探るように、ゆっくりと話し始める。
「……昔、わたしがまだ生まれる以前、信仰家の両親がサランで暮らしていた時のことです。
嵐の夜、貧しい家の窓はひっきりなしにがたつき、ところどころ欠けた石壁からは、悲鳴のようなすきま風と雨が絶えず吹き込んだ。
迫り来る冬を間近に、すでにみごもっていたわたしの母親は、寒さと飢えによるあまりの苦しみに、思わずこう叫んだそうです。
ああ、この国を造りし偉大なる聖サントハイムよ。
未だ生の喜び知らぬ弱き命の灯を、貴方のお慈悲以外のなにが守って下さいますものか。
もしも貴方がこの子をお助け下さるなら、わたしはこの子の魂の全てを貴方に捧げましょう。
佇んでは生と死を飲み込む海に添い、悪しきを堕する至高の崖<Cliff>となり、
動いては地を叩く嵐を垂直に昇りて、黎明の虹と変える風<lift>となる。
天におわします貴方のご意志を、地上にて形と成す役目を果たし得る、この世に唯一無二の神の子供として。
すると不思議なことに、荒れ狂う嵐はぴたりと止み、体の調子を取り戻した母親は、無事にわたしを産み落としたのだそうです」
「神の子供」
アリーナは驚いて繰り返した。
サントハイムに住む者なら三才の子供でも知っている、今や救国の英雄たるクリフトの通り名だ。
「それは予言だったの?成長して神官となったお前が、その名を冠することになるだろうという」
「さあ、どうなのでしょうか」
クリフトは困ったように微笑んだ。
「いずれにせよこの話を聞いたのは、まだそのように呼ばれたこともなかった小さな子供の頃でしたし、
それにわたしの両親は共に貧しくて、正式な神学を学んでいませんでしたから、本当はわたしの名前の綴りも発音も、古代語のそれとは少し違うのです」
「そうなのね」
アリーナはすっかり感心して言った。
「知らなかった。だからお前は、クリフトなのね」
「はい」
クリフトは優しく目元を和らげた。
「この名がお気に召しませんでしょうか?我が魂のあるじは」
「え?」
「言ったでしょう?わたしの全ては、生まれる前から聖サントハイムに捧げられている。
水晶の泉から生まれ、貴いこの国の礎を築いたという、偉大なる聖人の血を引く姫君に」
長身が屈められ、明るい蒼い目がこちらを覗き込む。
アリーナは照れ隠しにあわてて言った。
「と、とにかく、由来が解ってよかったわ!
これからはもっと、お前の名前を大切に呼ぼうって気にさせられたもの。
よくよく考えると、クリフトってどうも言いづらいなって、今度から愛称で呼んでみようかなって、ちょうど思ってたところだったのよ」
「愛称とは、どのような」
「そうねえ、クーリーとか、クリッフィとか」
「……止めておきましょうか、それは」
クリフトは手を伸ばして、小さな子供にするようにアリーナの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「名前とは、それ自体は単なる記号にすぎません。
日常の暮らしにおいて、自らの名を口にする機会というものはあまりない。
呼んで下さる方の心の鏡に映されて、初めて色を持ち、その価値を見出だされるものなのです」
「そうね、わかったわ」
「だからアリーナ様」
クリフトは微笑んで囁いた。
「わたしの名前を呼んで」
「クリフト」
「もう一度」
「クリフト」
「もう一度……」
でもアリーナにはそれ以上、名前を呼ぶことは出来なかった。
彼の唇が唇をふさいだから。
その代わり、まるで銀色の雲から舞い落ちる慈雨を浴びたように、音色を必要としない愛が、髪から指の先のすみずみまで満ちて、
アリーナはクリフトの魂が、生まれる前からの神聖な誓いを今も忠実に守っていることを知った。
そしてそれは、これからも守られる。
「クリフト」
「アリーナ様」
夢中で重ねた唇のすきまから、ふたつの名前が同時にこぼれる。
合わさるまなざしと吐息に、意識を淡く霞ませながら、ふたりはまたどちらかともなく囁いた。
「呼んで、もう一度。
生まれる前から魂に刻まれた、かけがえのない愛の名を」
―FIN―