幾億の珠の緒
「かけ算?聖句?いったい何を言ってるの、お前。嬉しそうな顔しちゃって」
ちんぷんかんぷんな単語の羅列に、あわや芽を出しかけた好奇心がもろくも崩れ去る。
アリーナはすっかり興ざめして、ニ連に重なった美しい数珠を、ぽいっと無造作に空中に放り投げた。
「うわっ!」
クリフトは慌てて床に滑り込み、間一髪で両手で受け止めた。
「ア、アリーナ様!いにしえの古き良き貴重な宝に、なんということを」
「三万浄土でも百万浄土でも、大昔の数珠の名前なんてわたしにはどうだっていいの。
それよりクリフト、もうそろそろここを出ましょ。
こんな空気の悪い所にいつまでもいたら、そのうち自分自身がお祈りを捧げられる身の上になっちゃうわ」
「え……、もうですか」
「なによ、こんな暗くて陰気な場所にお前はまだいたいっていうの?」
ついに堪忍袋の緒が切れて、アリーナは声を荒げた。
「だったら好きなだけいるといいわ。わたし、もう知らない。
ついでにここにお気に入りのベッドとテーブルも持ち込んで、世捨て人のように独りじめじめと暮らして行きなさい!」
「ま、待って下さい、アリーナ様」
クリフトは恋人の忍耐が限界に来たことをようやく悟り、あわてて数珠を木箱に大切そうにしまった。
「帰ります、今すぐ帰ります」
「まったく……そんな輪っかに珠がいくつ付いてるかなんてことより、わたしには今日の夕食の献立のほうがよっぽど大事だわ」
アリーナは呆れてクリフトを見た。
「お前、本気で面白いの?そんな役にも立たないことを真剣に学んで」
「偉大なる聖祖の知られざる足跡を辿ることは、サントハイム建国における未だ解き明かされぬ秘史を探ることでもありますから」
「探ってどうするのよ、そんなもの」
「知りたいのです。愛すべき母なるこの国が、一体どのようにして築かれたのかを」
そこで、クリフトは不意にぐいっとアリーナの肩を引き寄せ、薔薇色の耳に唇を押しあてた。
「謎の聖人の青い血を継いだ愛しいお方が、どのようなルーツを持って生まれて来られたのか、わたしは気になって仕方がないのですよ」
「よく言うわ。当の愛しいお方本人のことは、完全にほったらかしにしてたくせに」
アリーナは叫んで、クリフトの顔を乱暴に押し戻した。
「お前、このところずいぶんお世辞が上手くなったんじゃないの?昔はそんな調子のいい軽口は叩かなかったわよ」
「そうですか?」
クリフトは意外なことを言われたように目を見開いた。
「お世辞ではなく、本心です。調子がいいなどと、そのようなつもりは毛頭ありませんが」
「いーえ!昔のお前は、そんなふうに口先だけでわたしを煙に巻こうとはしなかったわ。
もっとわたしを大事にして、いつでもわたしを最優先に考えて、それ以外のことはなにもかもどうでもいいって感じだった」
「そ……、そうかな」
クリフトは複雑な顔をして考え込んだ。
「なんだかそのように聞かされると、昔のわたしはひとりの人間として、どうも問題があったみたいですね」
「でも、わたしはそっちの方がいいの!わけのわからない数珠を見つけては喜んでるお前よりずっと」
「数珠の球数とは、本来なれば108。人間が生まれ持つ煩悩の数であると言われています。
だから数珠の球を数えるということは、自分が抱えている心の弱さをきちんと見つめるということでもあるんですよ」
クリフトは片手をそっと差し出して広げ、「姫様、こうして」と囁いた。
アリーナが掌を出すと、ぽんとその上に自分の手を重ね、指を交差させてぎゅっと握りしめる。
「な、なあに」
「暗くて、お足元が危険です。地上までこうやって手を繋いで行きましょう。決してわたしから離れてはなりません」
「……うん」
てのひらとてのひらのぬくもりが重なると、にわかに頬の内側がきゅうっと痺れ、はちみつみたいな甘い味で満たされる。
アリーナは急に気恥ずかしくなってうつむいた。
「……クリフト」
「はい」
「ごめんね、いっぱい怒って急かしちゃって。せっかくお勉強してたのに」
「もう十二分に堪能させて頂きましたよ」
「数珠なら今度、わたしが作ってあげるわ。お前の瞳みたいに真っ青で、眩しいくらいきれいなサファイアで。
わたし、こう見えて意外と器用なのよ。一日じゃ到底数え切れないくらい、たくさんの珠を付けてあげるわ」
「それでは今以上に煩悩だらけになってしまいますね」
「三万浄土でも足りないくらい幾億の珠を連ねて、ふたりで体じゅうにぐるぐる巻いても余る長さにしましょう」
「これ以上貴女様への煩悩が増えたら、わたしは本当に問題人間です」
「いいでしょ、大は小を兼ねるっていうし。なにごとも少ないより多い方が」
「そうですね。煩悩あれば菩提ありとも言いますし。迷いがあるからこそ人は日々成長も出来る」
「それじゃあもう数珠のことはひとまず忘れて、今日はこのまま手を繋いでお城の庭園にお散歩に行きましょう。
今度は埃っぽい倉庫なんかじゃなく、太陽がたくさん降り注ぐ、眩暈がするくらい明るい場所にね」
「心から賛成です」
「ねえクリフト、ところで」
「はい、アリーナ様」
「さっきからお前、何度も言ってるけど……、
煩悩って、なあに?」
秘密倉庫はある。
歴史長きサントハイム城の地下深く、螺旋階段と柱廊を数え切れないほどくぐり、硬く分厚い鉄の蝶つがいが二重に連なった扉の、そのまた奥に。
偉大なる聖サントハイムの血を継いだお転婆姫が四苦八苦して作ったサファイアの長い長い数珠が、彼女の伴侶として英名を轟かせた蒼い目の優しい国王の生涯の宝としてあまたの古代遺物と一緒に棺に納められるのは、
まだもう少し、だいぶ先のこと。
-FIN-