KISS



「ねえ、クリフト」


唇と唇を離した瞬間、アリーナが難しい顔をした。

「これが、お前のいっぱいいっぱいなの?」

「えっ」

それは愛し合う者同士の甘いキス直後のセリフとも思えず、クリフトは呆然として、すぐ間近にあるアリーナの顔をまじまじと見た。

「い、いっぱいいっぱいって……?」

「たった今のこのキスが、お前の全力なのかってことよ。そうじゃないでしょ。久し振りに会うのに勿体ぶるなんて、お前も随分けちなのね」

アリーナは冷たい調子で言うと、肩に乗せられたクリフトの手を払いのけ、さっさと窓辺のほうへ歩いて行ってしまった。

クリフトは呆気に取られて立ち尽くした。

もう一度、今度はしっかりと抱きよせながらキスをして、久方振りのいとしいひとの温もりを確かめたかったのに、当のいとしいひとにわけのわからない捨て台詞と共に、いともそっけなく離れられてしまったのだ。

……いっぱいいっぱいって、なんだ?

わたしはなにを勿体ぶったんだ?

全力?

全力のキスって、どういうことだろう?








KISS










ようやく訪れた、愛してやまないアリーナ姫との数週間ぶりの逢瀬。

四六時中共にいた旅の頃とは違い、王城と教会という別々のすみかに帰ってからは、どれほど恋しくてもこれまでのように自由気ままに会うわけにはいかない。

アリーナ付きの侍女カーラに半ば強引に頼み込み、やっとのことでふたりで過ごす時間を作り、部屋の扉を閉めたとたん、待ちきれずに交わしたキス。

小さな頃から好きで、好きで、苦しいくらい好きなアリーナ姫と恋人同士になれただけでも天にも昇るほど幸せなのに、馬鹿な自分はつい巻き過ぎたぜんまい時計のように急いてしまう。

唇を重ねて、もどかしさに指を震わせながら抱きしめて。

彼女のまとう水仙のような甘い香りを胸いっぱい吸い込んで、心にひそむ小さな不安なんて吹き飛ばしてしまいたい。

アリーナ様はわたしのもの。

世界中の誰にも渡さない。

たとえ八百万の神が全員口を揃えて「それは違うぞ、クリフト」と否定しようとも、このお方はわたしのものと言ったら、わたしのものなのだ!

「あ、あの、アリーナ様」

だが心中の堂々たる宣言とは裏腹に、クリフトはおずおずとアリーナの後ろ姿に尋ねた。

「なあに」

「その……、ぜ、全力ではないとおっしゃいますのは、今のわたしのやり方になにか不行き届きがあったのでしょうか」

「やり方って、何の」

「で、ですからキ……」

クリフトは赤くなって黙った。

アリーナは振り返り、しばらく無言でクリフトを見つめてから言った。

「お前、本当はわたしとキスするのが嫌なんじゃないの?クリフト」

「へっ」

出し抜けに言われて、クリフトは間の抜けた声を上げた。

「な……、なぜ、そのような」

「マーニャに聞いたんだけど」

その名前を耳にしたとたん、クリフトは嫌な予感がしたが、アリーナの様子はごく真剣だった。

「キスには種類がふたつあるらしいの。親愛の情を込めて優しく唇に触れるいつものキスと、もうひとつ。

恋人同士は互いの想いが高まれば高まるほど、次第にもうひとつのキスのほうを頻繁に交わすようになるらしいわ。それが、ふたりの愛のあかしだっていうの。

わたしたち、ずっと幼馴染だったけど、今はもう恋人同士といってもいい間柄よね。クリフト」

「は、はい」

それなのに……、それなのにお前は、いつまでたっても初めての時となんにも変わらないキスばかり」

アリーナは傷ついた表情でクリフトを睨んだ。

「わたしのことが好きじゃないって、だからキスするのがほんとうは嫌なんだって、はっきり言えばいいじゃない!」

「す、好きじゃないわけがないじゃありませんか!」

この一寸先も予測不可能なお姫様は、また何を言い出し始めたのだ、とクリフトは動転しながら叫んだ。

「貴女様を好きじゃないなどと思う日は、たとえこの世が滅びようとも決して来ることはありません。

そ、それに……、マーニャさんのおっしゃることを真に受けるのはもうお止め下さい!あのお方は下世話な茶々を入れて、わたしたちをからかって楽しんでいるのです」

「じゃあ、キスには二種類あるっていうのはマーニャの嘘なの。恋人同士だけがそのキスを交わすっていう話は?」

「そ、それは……」

アリーナの真剣な様子に、クリフトはたじろいで後ずさった。

「必ずしも、全てが嘘だとは言えないかもしれませんが……」

「じゃあ、お前はわたしの恋人なのにどうして」

そうしてくれないの、と続けようとしたアリーナの珊瑚色の唇が、不意に言葉を失ってわなないた。

クリフトははっとした。

怒りを装うまなざしの奥に隠れた、よるべない不安の色。どうやら、彼女はこの問題に対して本当に真摯に心を痛めているのだ。

「え、えーと……、それはですね、決してしたくないからしないというわけではありません。

む、むしろその逆……、いや、その、ですが」

一体何の弁解なのだ、これは……と思いながら、クリフトはしどろもどろになった。

「貴きアリーナ様をあまりに深くお慕い申し上げるあまり、そ、そのような一段階発展した行為に及ぶ勇気というものが、不肖わたしにはまだ」

「そうやってまた堅苦しい、わけのわからない言い訳でごまかそうとするのね」

「ごまかそうとしてなんかいません」

クリフトはついむきになった。

「だから、したくないわけではないと言ってるじゃありませんか」

「じゃあ、すればいいじゃない。それともやっぱりお前はわたしのことが好きじゃないの?」

「死ぬほど好きです」

クリフトのこわばった顔にぱっと朱が散った。

「なぜ、そのような下らないご質問をなさるのですか。何度お聞きになられようとも、わたしの答えは変わりません。

わたしは貴女が好きです。この命をかけて。

どんな時も、離れていても、貴女の面影で心のすべてが埋め尽くされるほど。どうしようもなく焦がれて、自分が抑えきれなくなるほど」

「どうして抑えようとするの」

「想いの猛るままに止まらなくなってしまうのが、怖いからです」

「止まらなくなってもいいわ。だって……」

見上げるアリーナの声がかすれた。


「だって、恋人同士の想いは高まるものなんでしょう?


そうして交わす特別なキスが、ふたりの愛のあかしなんでしょう?」


クリフトはアリーナを引き寄せ、長身を屈めて彼女が望む「もうひとつのキス」をした。

空気の鳴動が止んだ。

長い長い時が過ぎ、永遠のような沈黙がふたりを包んだ。

ようやく唇を離したクリフトが、息をはずませながらためらいがちにアリーナを見つめると、アリーナはものも言えず、呆然と瞳を見開いていた。

「……アリーナ様」

「あ」

はっとしたアリーナの頬に、薔薇が咲き初めたようにみるみる鮮やかな血の色が昇った。

「あ、あ、あ……、ありがとう、クリフト。

わ、わたし……、これでよくわかったわ。本当にキスには、ふ、ふたつの種類があるってこ……」

「好きです」

クリフトは耐えきれなくなったようにアリーナを抱きすくめた。

「貴女が好きだ。

アリーナ様、貴女が思っているよりもずっと深く、わたしは貴女のことを愛しているのです。

だから……、わたしは貴女を、怖がらせたくない」

「怖くないわ」

まだ頬は熱かったが、アリーナは徐々に落ち着いてきたらしく、ほほえんでクリフトの胸に顔をうずめた。

「ちょっとびっくりしたけど、でも大丈夫。全然怖くない。

まだ胸がどきどきしているけど、もうすこし時間が経てばきっと嬉しくてたまらなくなるわ。だって、わたしたちがこう出来たことは、わたしとお前の想いが高まったあかしなんだもの」

「……」

「でも、キスって好きな気持ちを半分ずつに分かち合う儀式のようなものだと思ってたけど、違うのね。

お前がもうひとつのキスをしてくれている時、わたし、自分が食べ物になったような気がしたわ。

クリフトの好きな、紅茶のクッキーや甘い蜂蜜飴みたいに、お前にわたしの全部を食べられちゃう気がした」

クリフトはこれ以上ないほど赤くなったが、それについてはなにも言い返そうとはしなかった。

アリーナはクリフトの腕の中でくすくす笑い、小ウサギのように身を弾ませた。

「アリーナ様?」

「どうしよう。すごく、すごく嬉しいの。

これでクリフトとわたしも、本当の恋人同士ね。これからきっと、頻繁にもうひとつのキスばかりするようになるのね」

「そ……」

そういうわけでもありません、時と場合によりけりで……と言おうとしたが、クリフトは黙ってあいまいに笑うにとどめた。

彼女の言った通り、今はまだ気持ちが高ぶっているけれど、時間が経てば自分も叫びだしたいほど嬉しくなるだろう。

それに、彼女の言葉もあながち間違いではないのだ。

深くて濃密な、めくるめくキスの恍惚に我れを忘れそうになりながら、こう思った。


このまま食べてしまいたい。



貴女の全部を、この世界中でたったひとり、わたしだけが。



誰にも打ち明けられない秘密のような、ひそやかで乱暴な感情をそっと心にしまいこんでいると、腕の中のアリーナが妙案を思いついたようにぱっと顔を輝かせた。

「ねえ、クリフト。もうひとつのキスのことだけど、もしかしたらもっと違うやり方もあるんじゃないかしら?

さっきはクリフトからだったけど、今度はわたしのほうから。そうすれば食べられちゃうのは、わたしじゃなくて……」




クリフトの心は、再び乱れた。





-FIN-

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