星の夜にⅡ
「今夜はお星様が、本当にきれいね」
アリーナは呟き、軽く首を傾けて、萌黄色の長い聖帽の陰に顔をうつむかせたクリフトを振り返った。
「はい、姫様」
キスを阻まれたクリフトは少しぎこちなく頷いたが、気を取り直したのか、唇には既にほほえみをたたえていた。
「ねえ、質問してもいい?クリフト」
「わたしにわかることでしたら、なんなりとどうぞ」
「夜空って、どうして暗いのかしらね?」
突拍子もない問いかけに、クリフトは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、アリーナの鳶色の瞳はいたって真剣だった。
「だって、お星様はあんなにも強い光を放って燃えているのよ。それに、銀河には数え切れないほどたくさんの星があるわ。
たとえ太陽がこの星の裏側にいたとしても、あれほどたくさんの星の光があれば、夜だって昼と同じくらい明るくてもいいはずでしょ」
「素晴らしいご質問です、姫様」
クリフトは嬉しそうに蒼い瞳を輝かせた。
「そうやって貴女様がなにげなく発する疑問の言葉が、これまでどれほどわたしの拙い知識欲を刺激して下さったことでしょう。
この世のすべての事実は、偶然の質問から生みだされます。当たり前に見える事象に賽を投げるように疑問を持つのは、人の子の生きる意味とも言えるもの。
姫様、それと全く同じ疑問を抱いた天文学者が、かつてはるか古代の西の国におりました。彼の名は、ハインリヒ・オルバースといいます」
「オルバース?」
「はい」
どうやらこの質問は彼の得意分野であったらしく、クリフトは意気揚々と頷いた。
「学者オルバースはその昔、姫様とおなじ疑問を持ちました。
もしも無限に広いこの宇宙に均等に星が分布していると考えたならば、太陽のない夜空さえも昼のように明るくなってしまうのではないか、と。
夜空の明るさとは、星の光がわたしたちの住むこの星にどれだけ降り注いでいるか、ということ。もしもその輝きが太陽の輝きを上回れば、夜さえ昼より明るくなる。
一見曖昧なたとえ話のように聞こえますが、じつはこの答えは、星の数と光の見かけの明るさの積で正確に導きだすことが出来るのですよ。
星の明るさは距離の二乗に反比例して減りますが、個数は距離の三乗に比例して増える。つまり光の総量とは、距離に比例して増えることになります。
遠くにある星ほど、一個の光は弱くなりますが、数で補うことで銀河全体の明るさはどんどん増していく。
この理論に基づくと、おかしなことにオルバースの提唱した通り、無数の星が輝く夜空はたったひとつの太陽が照らす昼間よりも、ずっと明るいことになってしまうのです。
これを、天文学上ではオルバースのパラドックスと呼んでいます」
「ああ、なんて堅苦しくて、ロマンチックじゃない答えなの」
アリーナは頭を抱えた。
「何がパラドックスよ。わたしはね、クリフト。べつにそんな難しい答えが欲しかったわけじゃないの。
せっかくのこの星空なのよ。月の女神が黄金の宝箱からこぼした星屑をきらめかせるために、お空に夜色のカーテンを引いたんですよ、とか、もっとわくわくするような答え方は出来ないわけ?」
「夜空にカーテンは引かれていませんからね、実際のところ」
こと自分の追及する学問に関しては、夢やロマンでごまかしたくないらしく、クリフトは頑固に言いつのった。
「たとえ百歩譲って、月の女神が星屑を宝箱からこぼしたのだとしても、星が光っているのは彼ら自身がガスをまとって燃えているからで、決して不思議な女神の魔法の力ではありません。
姫様のお心を打つような幻想的な答えは出てこないかもしれませんが、ご質問なさった以上、責任を持って最後までお聞きください」
「わかったわよ」
アリーナはため息をついて「続けなさい、クリフト」と言った。
クリフトは真面目な顔で頷いた。
「昼間より夜の方が明るいことになってしまう、学者オルバースの提唱したパラドックス。
この奇妙な理論に明確な反論を示す方法は、じつはふたつあります。
ひとつは、一般に果てしないと言われている宇宙を、どこかで終わっている有限のものだと考えること。
宇宙の広さが有限であれば、そこに浮かぶ星の数もまた有限のものとなり、従って夜空が無数の星の光で明るくなってしまうことはありません。
そしてもうひとつは、宇宙が膨張している……、この頭上に広がる大宇宙が、雨の日のあとの木の芽のように、今も日々大きくなり続けていると考えること。
膨らみ続けているということは、最初は小さかったということです。つまり宇宙には始まりがあったことを意味し、宇宙の始まりから現在までの時間は有限であり、ゆえに遠くの星の光はまだ、我々の住むこの星に辿りつく事が出来ません。
このふたつの可能性のどちらかを持ちだすことで、オルバースのパラドックスは成り立たなくなるわけです。しかし……」
わたし、どうしてこんな質問をしちゃったんだろう……、とアリーナは激しく後悔しながら肩を落とした。
クリフトはもはやアリーナが聞いているのかどうかなどどうでもよくなってしまったように、頬を紅潮させて瞳を宙に向け、我流の天文学理論を熱心に披露している。
(なに言ってるんだか、ちっともわかんないよ。クリフト)
でも、難しい学問の話をしている時のお前の目、なんていきいきと輝いているのかしら。
これこそ夜を昼のように輝かせるため地上に落ちて来た、はりきり屋の一対のお星様みたいだわ。
それにしても、終わりがあるとかふくらみ続けているとか、まるで毎日寝る前に読む絵本やかまどの中の焼きかけのパンみたいな言い方をしてるけど、宇宙っていったい何なの?
「……ですが、姫様。
じつはその後、このオルバースのパラドックス解明論に一石を投じる、あらたな理論が発表されたのですよ」
クリフトはさらに語気に熱を込めて喋りつづけた。
「それが古代北方生まれの科学者フリードマンの唱えた、俗にいうフリードマン宇宙。
この説の登場はオルバースのパラドックス論破に頭を悩ませていたいにしえの天文学界に、まるで隕石が落ちたような衝撃を走らせました。
それによると、宇宙とは有限で終わりがあり、しかも果てがないという……」
「ちょっと待って。終わりがあって、果てがないってどういうことよ」
放っておけばいつまでも続きそうな立て板に水の論述に、アリーナはつい苛々して噛みついた。
「終わりと果ては同じでしょ。終わりがあるなら、そこは果てってことじゃないの。
終わりがあるけど果てがない、なんて言い方は、頭のよすぎる連中が物事を無駄にややこしくして楽しんでいるだけのようにわたしには聞こえるわ」
「姫様……!」
勉強嫌いの恋人から思いがけず二度も質問を貰い、クリフトは母親にようやくかまってもらえた子供のように、蒼い目をきらきらさせてアリーナを見た。
アリーナはしまったと思ったが、もう遅かった。
「よくぞお聞き下さいました。たしかに言語上では、終わりと果てはまるで同じものであるかのように響きます。
ですが、……そうですね。わかりやすく言えば、こういうことです。
たとえば、姫様。わたしたちの住むこの星が、毬のように丸いかたちをしていることはご存知ですか。
船に乗って、気球に乗って、移動手段は何であれ同一方向に進み続ければ、わたしたち人間はこの星を一周し、またふたたび同じ場所に戻って来ることが出来る。それはこの星が完結したひとつの球体だからです」
「この世界が、丸い大きいなかたまりだってことは知ってるわ。でも、だからなによ」
「では、姫様。この星の果てはどこですか?」
アリーナはきょとんとして目をしばたたかせた。
「この星の……、果てですって?」
「はい」
クリフトは頷いた。
「この星は無限に広がっているわけではない。ちゃんと終わりがある。ひとつの球体として、うつくしく完結している限りある存在です。
では、この星の果て……とは、一体どこのことを差すのでしょうか」
「……」
(はて……(シ、シャレじゃないわよ!))
アリーナは可愛らしい眉根をぎゅっとひそめて懸命に考えたが、それらしい答えはひとつも浮かんでこなかった。
丸い星が宇宙にぷかぷかと浮かんでいるなら、この星のてっぺん、一番北の方角が果てってことになるんじゃないのかしら?
いいえ、わたしたちの身体は北を向いているんじゃない。空を上にして、大地と直角に立っているのよ。だったら北がてっぺんとは言えないわ。
それに、この星は山じゃないんだもの。もしもどこかにてっぺんなんて場所があったとしても、そこが果てだなんてどうして言えるの?大体、果てってなんなの?
青ざめて絶句したアリーナを見ると、クリフトは苦笑いしてそっと手を差し伸べた。
「なんとなく、感覚としてだけでもかまいません。
漠然とした想像でも、お解りになって頂けましたか。終わりと果てが違うことを」
「な、なんとなくね……。なんとなく」
「この宇宙はもしかすると丸いのかもしれないのです、姫様。わたしたちの愛する母なる星のように」
クリフトは魅入られたように囁いた。
「この広い宇宙は、もしかすると終わりがあるけれど果てのない、巨大なひとつの球体であるのかもしれない。
オルバースのパラドックスに始まり、フリードマンが導きだした宇宙論は、わたしたちの頭上に広がる大宇宙のまったく新しいかたちを提示しました。
もう幾千年もの間、我々人間のあいだでは、宇宙とは一体どのような存在なのだろうかという論議が絶えずたたかわされています。しかし、結局それはどれも推論に過ぎない。
広い宇宙は、この星と同じように丸い球体なのかもしれない。
それともやはり、無限に広がる謎の闇の海なのかもしれない。
宇宙とはかくあるものだと断言出来る存在は、恐らくこの世界に誰ひとりとしていないでしょう。神以外には」
「だから、お前はいつも勉強するのね。そして神様を探すのね。
そこに、終わりも果てもなく。だって求める答えも神様の場所も、いまだにわたしたち人間にはなにひとつ解りはしないんだもの」
だったらそんな掴みどころのない霞のような答えを探すより、もっと大切にしなくちゃいけないものが、ここにあるんじゃないのかしら?
お前が今知るべきなのは、宇宙なんかじゃない。
終わりも果てもないわたしのこの想い。
何故かふっと焦れた心のうちを、星のように瞳を輝かせている目の前の青年に伝えようかとも思ったが、つい先ほど彼の口づけをやんわりと避けたのは自分だと思い返し、アリーナは夜空へ向き直った。
そしてほんの少しの不満を滲ませて、また繰り返した。
「今夜は星が綺麗ね、クリフト」
それがもう一度、キスを試みて欲しいという無言の合図だということに、鈍感な彼がはやく気付いてくれればいいのだけれど。
-FIN-