空の瞳
咲き誇る花々と共に、空気まで甘く色づいているような、淡く美しい七色の光の煙る春。
「クリフト、クリフト」
わたしを呼ぶ彼女の声も、なんとなくいつもより浮き浮きと弾んでいる。
それを耳にしただけで、書物の文字を追いかけていたわたしの目は、羽根が生えたようににわかに宙をさ迷いはじめ、
たったいま水を飲んだばかりだと言うのに、喉の奥が急激に熱くなって、口の中がからからと干上がってしまう。
ため息をついて、わたしは本を閉じた。
もう読書は無理だ。
昨日も同じ轍を踏んだから、今日こそは最後までしっかりと目を通しておこうと決めていたのに。
だが落胆するはずの心はひとりでに鼓動を早め、熱を帯びた血が頬までするすると昇って来る。
自然とほころんでしまう唇をなんとか元の位置に押し止めようと、わたしは頬の内側をきゅっと噛み締めた。
本を読みながら独りでにやついているなんて、彼女に思われたくはない。
「クリフト、こんな所にいたの。ミネアが探していたわ。
明日は宿を出るし、今日のうちに一緒にお金を確認して欲しいんですって。
なあに、また勉強?そんなに本ばかり読んだって、神様はなにもしてくれやしないわよ」
「神は、求めれば必ずお与え下さいます」
わたしは出来るだけ彼女の方を見ないようにして、ぼそぼそと呟いた。
相も変わらず下を向いては神よ神よとばかり口走る、陰気な男だと思われただろうか。
だがほんの数秒のうちに、雄鶏のとさかのようになってしまった顔のままで、彼女と正面から向き合うことなど出来るはずもなかった。
目を閉じて、気づかれぬよう肩先だけで深呼吸をする。
動悸が落ち着きを取り戻したのを確認してから、わたしは意を決して顔を上げた。
旅を始めてもう、百度以上も朝日が昇るのを見た。
たかが言葉を交わすだけで、いつまでもこんなふうに動揺しているわけにはいかないのだ。
「うん、やっぱり」
だが彼女は、草の上に腰を下ろしたわたしの正面に立ったとたんにっこりと微笑み、まるで思ってもみなかったような言葉を口にした。
「ほら見て、あの空。
同じだわ。太陽の光と溶け合って、きらきらした群青色に輝いている。
クリフト、お前の目、あの空と同じ色をしているのよ。
ずっと思っていたの。何故か解らないけど、いつでもお前を感じると。
どんなに苦しい戦いの中でも、傷つき大地に倒れた時でも、いつも卵を包む母鳥の翼のように、暖かな蒼い光を感じてた。
やっと気が付いたわ。お前だったのね。お前が、そうだったのね」
「……恐れ、入ります」
もっと気の利いた言葉を返すことが出来れば、どんなにか自分を好きになれただろう。
ようやくその一言を口にした時には、彼女は無邪気に踵を返し、この場をリスのように軽やかに立ち去ったあとだった。
わたしは立ち上がった。
見上げると空は蒼く高く、雲を抱き、地平線と溶け合う遥か彼方まで続いている。
もしも、わたしがこの空なら。
この大空のように限りなく広く、この世にたったひとつの稀有な美しい花が、大地にしっかりと根を張って咲き誇るのを、いつまでも見守り続けることが出来たなら。
わたしはしゃがみ込み、風にそよぐ草の群れの中に、ほとんど読んでいない重たい本をそっと置いた。
そうなるための方法は、きっとこの中なんかには書かれていないのだろう。
革靴の先が、かつんと羊皮の表紙に当たり、道端の石を蹴飛ばしたような小気味よい音が鳴る。
わたしはようやく、誰の目も気にすることなく唇を持ち上げて思い切り笑った。
それから彼女の言った太陽の混じる群青色を眼上に見つけようと、首を伸ばしてもう一度広い空を仰いだ。
―FIN-