海の瞳



「ん、ん……っ」


堪えようとしても堪えきれない、ひそやかで背徳的な熱いため息。

まるで蜜を得ようとして、うっかり樹液にはまり込んで溺れ死んでしまった、憐れでちっぽけな、取るに足らない羽虫のように、

わたしは抗い、まるで水の中でもがくように手足を緩慢に揺らして、なんとかその、深くて暗い底無しの媚薬の海から抜け出そうとする。

でも抜け出せない。

違う、抜け出したくない。


汗で額に張り付いた髪を、もう充分に戯れを犯した後の指で掻き分けながら、彼が闇夜のひと吹きの風のように、耳元で低く囁く。


「もう、止めますか?」


ええ、止めて。

扉には鍵を掛けていないし、いつ誰かが入って来るかも解らない。

けれどわたしの唇は呪縛にかけられたように、頭とは全く正反対の言葉を滑り落とす。


「お願い……、


や め な い で」


殆ど消えかけた蝋燭の、ほの暗い明かり。

炎の周りを舞い飛ぶ峨の鱗紛。

彼の蒼い目が、魚が跳ねた後の水面のように揺れる。

地に打ち上げられた魚が、銀色の体をうねらせてのたうつのは、助けを求めてなのか、

それとも果て行く命のまぎわに、その身の全てを食べ尽くされてしまいたいからなのか。

泳ぎを止めると死んでしまう、遠い海のあの光る生き物のように、走り出してしまった衝動は、渇いた地を燃やす火のように加速していくばかりで、


もうなにもわからない。


「駄……、目っ……」


苦痛にも似た歓喜が、震える渦となって身体中にこだまし、わたしは懸命に息を堪え、瀕死の子猫のようにか細く呟いた。

「もう駄目……!」

「……いいですよ」


オレンジ色に縁取られた暗闇の中、心臓の奥底まで響き渡る囁き。

いつもの柔らかな敬語さえも、甘い吐息に混じり、まるで淫靡な呪文のように耳を打つ。

彼の手がわたしをかき乱す。

霧に包まれたように、現実のすべてを忘れ果てる。


「もういいですよ、姫様………、


我 慢 し な い で ……」



その瞬間、わたしは夜の中で、甘くしたたるただの蜜の塊となって、




溶ける。






目覚めると、傍らには誰もいない。

頬を擦る、ざらついた埃の感触。倒れ込むように、冷たい木の床の上に横たわっていた。

彼の姿はない。

衣服も全て、きちんと身につけている。

わたしはよろめくように起き上がった。

天窓から差し込む、無垢な眩しい朝陽。

全て夢だったのだろうか?

鳩尾の内側に残る、重く怠い感覚と、力を失った両膝だけが昨夜の記憶が幻ではないことを、かろうじて証明してくれていた。

扉を開けて、ふらふらと宿の食堂に向かうと、大人数用の樫の木造りのテーブルに、仲間達皆が思い思いに腰掛けて、

まだ目覚めたばかりの新鮮な朝の時間を、めいめいにくつろいで楽しんでいた。

おののきながら、吸い寄せられるように見つめた一点の先に、



彼はいた。



ゆったりと椅子に腰掛け、既に食事を済ませた後の、脂で少し光る唇の片方だけを持ち上げて、

彼はまるで妖しい神話のインキュバスのように、夜の海の色の瞳でわたしを捉え、やがて薄く微笑んだ。

その瞬間、目に見えない茨の鎖で、身体中を瞬く間に搦め捕られる。


(姫様)


誰にも気付かれぬように、肘をついて顎を支える掌の中で、彼が唇だけを動かして囁く。


(また、今夜も)


爪先を震わせながら立ち尽くし、魅入られたように自分が頷くのが解る。


彼が眉尻を上げて、そっと白い歯を見せる。



わたしはその場を、動けなくなる。



夜の闇を泳ぐ海の瞳に、今夜もまた、たやすくわたしは捕らえられてしまう。




-FIN-


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