月夜と髪にまつわる秘密
「少しだけよ、たくさんは切らないで!」
それはある日の昼下がり。
木綿のケープで肩を包まれ、首の後ろをぐいっと引っ張られて、わたしはこわごわ叫んだ。
髪を切るのは嫌い。
伸びすぎているからだって、毛先を揃えるだけだからって何度言われても、薄茶色の毛束に鋏が入れられるたび、みぞおちがずきんと痛くなって、なぜかどうしようもなく不安な気持ちになってしまう。
長く伸ばした髪は、わたしがたったひとつだけ持っている、女の子であるあかしのようなもの。
こんなにじゃじゃ馬で暴れ者で(みとめたくないけど)がっちりと筋肉質な体型の自分が、もしも髪まで短かったら、
クリフトに好きになってもらえないどころか、そもそも女だってことすら、気づいてもらえないかもしれないから。
でもそう言うと、クリフトは微笑んで首を振った。
「髪が長くても短くても、貴女はわたしにとって、だれよりも女の子ですよ」
「そうかなあ」
「アリーナ様はおつむりが小さいから、きっと短い髪もよくお似合いになるでしょう」
「じゃあお前はどっちが好きなの、クリフト。長いのと、短いのと」
「わたしですか」
クリフトは眉を上げてわたしを見、なぜか顔を赤らめた。
「そうですね……わたしは、どちらかといえば今のままのほうが」
「ふうん。お前は髪が長い女の子のほうが、好みってわけなのね」
「そうではありません。好みが何であるのか、わたしにはよくわかりません。
なにせ、他の女性をそのような目で見たことがないものですから……ただ」
「なあに」
「あなたの長い髪が大好きだと思う、ある瞬間があって」
そう言ってクリフトは、またぱっと顔を赤くした。
「その時のあなたは、どんな花や宝石も太刀打ち出来ないほど、すごくお綺麗なのです」
「ええ?」
わたしは面食らって言った。
「一体いつよ、それ?このわたしにそんな時があるなんて、とても思えないわ」
「ありますよ。世界中で、わたしだけが知ってる」
クリフトは悪戯っぽくくすくすと笑った。
「あなたの喉が上を向いたら、長い髪がぱっと散って、白いシーツの上で雪の原にそそぐ川のように美しい曲線を描いてさらさら流れる。
その時わたしはいつも、あんまり綺麗でめまいがしそうで、思わずわあっと叫び出しそうになるのを、一生懸命我慢しているんです」
「叫ぶ?……なんだか、ちっともわからないけど」
わたしは肩をすくめた。
「とにかくお前は、このままわたしが長い髪でいたほうがいいってことなのよね」
「そうですね、出来れば」
「じゃあ絶対に切らないわ。そのかわり、もしもその時が来たならぜひ教えてよ。
わたしの長い髪がすごく綺麗だっていう時。
気づかないかもしれないから、ほら今ですよって手を引いて、わたしにもちゃんと解るように、まっすぐに目を見つめながら」
「見つめながら?」
なぜかクリフトはまた赤くなり、困ったように眉尻を下げた。
「それは……その時の状況に応じて、可能であれば」
「なに訳のわからないこと言ってるの。とにかくいいわね、絶対に教えてくれること!
クリフト、約束よ」
わたしが小指を差し出すと、蒼い瞳が少し戸惑ったような光を浮かべる。
それからすぐに微笑みが降りて来て、大きくて長い小指が、蔦のように優しく絡みついた。
「はい。約束です」
そして、夜。
太陽が沈み、その恵みを存分に受けた花々が、満足してようやく眠りにつく頃。
銀色の月の光の中で、マシュマロのようにやわらかなベッドの上で、クリフトはわたしに、とてもていねいに教えてくれた。
その瞬間を。
髪に触れて。
ちゃんと目を見つめながら。
でも言葉はなく。
今まで少しも気づかなかったけれど、懸命に目をこらして見つめると、長い睫毛が風にそよぐ柳のように、せつなそうに震えていたから、
彼がその瞬間、めまいがするほど叫び出したいのを我慢しているのは、どうやら本当のことみたいだった。
そしてその夜以来、わたしは彼が綺麗だという自分の長い髪が、ますます好きになった。
えっ?
一体どんな時だったのかって?
それは……、誰にも教えられない、
わたしとクリフト永遠にふたりだけの、
秘密!
―FIN―