Kiss of Happiness


「最近、キスしてくれないのね」

国王の仕事は忙しい。

これまで人生のほとんどを神に捧げて来た自分には、帝王学を享受し、王権政治に関わること自体がそもそも青天の霹靂。

生まれたばかりの赤児が言葉を覚え、人間行動を覚えて行くように、毎日のすべてが真新しい学び。

だから久し振りのふたりきりの食事中、向かいに座ったアリーナがむっつりとこぼした言葉さえ、

今度施行された新しい法令かなにかだろうかと、クリフトは一瞬考えた。

「なによ、そのきょとんとした顔。馬鹿みたい」

淋しさを八つ当たりに変えるのが大得意のいとしい妻が、会えない日が続くと必ずまき散らす、不機嫌の嵐。

そんなのはもう、十年以上昔から慣れっこなので、今更どうということはないのだが。

「……今、キスしてくれないって、おっしゃいましたか」

「さあね、なんて言ったかしら。もう忘れちゃった。ちゃんと聞いてなかったお前が悪いのよ」

アリーナはつんと顎を上げてそっぽを向くと、片手に掴んだライ麦パンを、ぱくりと口に放り込んだ。

怒りや悲しみ、心を吹き荒れる負の感情にも、絶対に食欲を左右されないのが彼女の素晴らしいところ。

健やかそのもの。

彼女を見ていると、言葉よりもっと熱い命の息吹が、「生きるって幸せなことなんだ」と教えてくれるような気がする。

「毎日、おはようとおやすみの時、それから行って来ますと、ただいま……それと」

クリフトは咳払いした。

「昨晩、貴女の身体じゅうにさせて頂いたあれは、一体なんだったというのでしょう」

「な、な、なに言ってんのよ!馬鹿ね!」

アリーナは真っ赤になって飛び上がった。

「サントハイム国王ともあろう者が、不謹慎だわ!食事中にみだりがわしいことを言わないでちょうだい!

そんな嫌らしいことを平気で口にして、お前、それでも元聖職者なの?」

「ご自分で話を振ったくせに……」

クリフトはため息をついて、フォークとナイフを置いた。

惜しみなく与えているつもりの甘い愛情は、なぜか彼女に届いたとたん、塩からい海の水に変化するらしい。

口にすればするほど、もっともっと、渇いて、欲しくて、すこしも足りなくて。

「つまり、こういうことですか」

クリフトは立ち上がってテーブルの向こう側へ歩み、アリーナの傍らで膝まづいた。

驚く彼女の顎を掴み、自分の方へ向かせると、荒っぽく唇を重ねる。

「ちょっ……、クリフ……!」

「しっ。喋らないで」

合わせた唇のすき間からするりと忍び込む、絹のようになめらかな舌。

弾む息から伝わるライ麦の香り、蜂蜜の香り、アプリコットのジャムの香り。

伏せた睫毛が頬をかすめ、強い目眩にさらわれながら、アリーナはふたりの唇が同じかぐわしさを湛えていることに気付いた。

ああ、わたしたち、同じものを食べて生きてるんだ。

毎日同じベッドで休んで、同じ色の朝陽を浴びて、同じ香りの衣服を身に着けて、

もう身体のほとんどが同じもので出来ているはずなのに、どうしてこんなに足りないと思うんだろう?

「……こんなふうに、時には不意打ちが必要だってことですね。

挨拶みたいに繰り返す、毎日の習慣ではなくて」

「うん」

唇が離れると、思わず素直に頷いて、アリーナは不本意そうに頬を赤くした。

「だ、大体そういうことは、いちいち言われなくても気が付くものよ。本当に好きなんだったらね」

「大変申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」

クリフトは微笑んで、アリーナの鼻の頭に音を立てて口づけた。

「これからはこうして、所構わずキスさせて頂きます。

食事中でも、回廊ですれ違った時でも、皆の前でも」

「そういうことを言ってるんじゃないでしょ」

「それから」

クリフトが意地悪そうに囁いた。

「くすぐったがりのアリーナ様が身をよじって笑う、わたしだけが知るあの場所にも、たくさん」

「だっ、だから、そういうことを今……!」

「なにも、恥ずかしがることなどありません。キスは唇同士だけのものと決まったわけじゃない」

クリフトはアリーナの額に手を触れ、前髪をかき分けると唇を押しあてた。

「アリーナ様、忘れないで。

どんなに忙しくて、共に過ごす時間が減ってしまったとしても、わたしはいつもこう思っています。

貴女の全部にキスしたい。毎日、パンを食べるみたいに、貴女の全部を食べてしまいたい。

それからついでに申し上げると、キスは愛し合う男女ふたりだけのものでもないのですよ」

「どういうこと?」

クリフトは瞳を細めると、悪戯っぽく笑った。

壁中央にある扉に向かって歩いて行くと、うやうやしく頭を下げて、左手で扉を軽く叩く。

「……それは、こういうこと。どうぞ」

「久し振りーーっ!!アリーナ!!」

明るい叫び声が舞い上がり、左右に大きく開け放たれた扉から、花束みたいな色とりどりの人影が飛び出してくる。

アリーナは目を丸くして言葉を失った。

「……み、みんな……?!」

「すごーく会いたかったわ。あんたたちの結婚式以来ね!

王様と王妃様になっちゃってから、ずいぶん忙しいみたいじゃない。元気にしてるの?

あたし?あたしは元気よお、決まってるわ!毎晩モンバーバラ劇場の真打ちを務めてて、今日は久し振りの休暇なの。

ねえねえ、今日一日、皆で思いっ切り遊びましょうね!」

「ちょっと、姉さんったら……一方的に喋りすぎよ。アリーナさん、驚いてるじゃないの」

「あ、あのう……後ろがつかえてますから、部屋の中に進んでもらえますか?

ふう、皆で扉にくっついてたから、暑くて暑くて」

「トルネコ殿は太りすぎなのだ。旅を終えて、また一段と太ったのではないか?

一度、バドランドにおいでなさらぬか。拙者が鍛えてしんぜよう。みるみる痩せるぞ」

「なんでもいいから、とにかく中に入れよ。邪魔だな」

「この阿呆ども、神聖な王城の廊下で騒ぐな!早く入らんか!」

最後方のブライが一喝すると、懐かしい仲間たちが歩みを進め、次々に目の前に並ぶ。

アリーナは両手で口を押さえ、皆の顔を見つめた。

「……まったく、こっちはいつ呼ばれるかと息をひそめて待ってるのに、人目も憚らずいちゃつきやがって。

お前ら、夫婦になってもまだそんなにべたついてるのか」

かつて勇者と呼ばれた美貌の若者が、呆れたように言って、ふんと笑った。

「久し振りだな。姫御前は相変わらず、殺しても死なないくらい元気そうだ」

「みんな……ど、どうして?」

呆然と唇を震わせると、クリフトが後ろからそっとアリーナに近付いた。

両手が肩に乗せられて、優しい蒼い目が頷きかける。

「ブライ様」

「うむ。じつはクリフトに……国王に提案されてな。

姫は、いや、王妃は婚礼後、ずいぶん熱心に公務に励んでおった。

苦手なドレスも大人しく身に着け、晩餐会にも出席し、世界各国への外遊もすべてきちんとこなされた。

誇りあるサントハイム王家の新しい王妃として、立派に合格点じゃ」

ブライはいかめしい顔を保とうとしたが、やがてくっくっと肩を揺らして笑い出した。

「じゃが晩餐会で、扇を口元にあてて「皆様、ご機嫌うるわしゅう」としなを作った時は、わしゃひっくり返るかと思ったわい。

これまで、アリーナ姫はよう頑張られた。だから、今日はご褒美じゃ。

城の神聖も王家の誇りもどうでもよい。皆、好きなだけ騒げ!」

「やったあ!」

「嬉しい!久しぶりに、みんなで思いっきり楽しみましょう」

「アリーナ」

「会いたかった、アリーナ!」

「みんな……」

勢いよく抱きついて来たのが誰だか解らなかったのは、涙ですっかり視界がぼやけてしまったからだ。

「嬉しいね、アリーナ」

「頑張ったらいいことがあるんだね、アリーナ。わたしたちにも」

驚きと戸惑いが、水に浮かぶ砂糖のようにさらさら溶けて、幸福のスコールが降り注ぐ。

なんてことだろう。

不意打ちがくれるかけがえのない喜びは、こんなところにもあったのだ。

「クリフト、みんな、ありがとう……!」

そう、わたしたちふたりだけのものじゃない。

だから心から贈ろう。

懐かしい仲間へ、努力を認めてくれた人へ。

そして、こんな素敵なプレゼントをくれたあなたへ。

世界中のすべてのキスは、幸せのためにある。

「ありがとう。大好き!」

アリーナは泣き笑いながら呟くと、ぎゅっと寄せられた友の温かな頬に、心からの感謝を込めてキスをした。





-FIN-



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