ルララ



「ル、ル、ララ……」


降り始めたしぐれと共に暖かい春の風に乗って、囁きがかすかな音色を奏でる。

アリーナ姫はびっくりしたように顔を上げた。

「ねえ、今歌を歌ったの?クリフト」

窓敷居に体をもたせかけ、外を見つめていたクリフトは振り返って、薄く頬を染めた。

「聞こえてしまいましたか」

「お前の歌を聞くなんて、いっしょに聖歌を練習した小さな頃以来だわ」

「神のたかき御心とは、音霊、つまり美しき歌の調べと常に共にあるもの。

声変わりを迎えてから人前ではもっぱら指揮を取る役目に回りましたが、この旅に出かける以前は、教会で実に様々な讃美歌を歌わせて頂きましたよ」

「ふうん」

アリーナは面白そうに鼻を鳴らし、組んでいた足をほどいてクリフトに走り寄った。

「ね、さっきはなにを歌ったの。もっと聞かせてちょうだい」

「そう改まってお願いされると、なんだか恥ずかしいですね」

クリフトは苦笑いしたが、それでもあるじの要望を拒むことはせず、静かに蒼い目を閉じるとそっと唇を開いた。



「Was Gott tut、 das ist wohlgetan……」



低く涼やかな音色が紡ぐ、絹糸のような柔らかな旋律。

アリーナは少し驚きながら、幼い頃からずっとそばにいる背の高い優しい神官の、温和な見た目にそぐわぬ美しい声音を耳にした。

甘い調べが部屋中を照らす。

まるでクリフトの歌そのものが神様の光にふちどられ、蛍のように輝いているみたいだ。

「とても綺麗な歌。でも、どこの国の言葉なの?

なんて言ってるのか、歌詞の意味が全然わからないわ」

「ずっとずっと西の古代の、もう遠い昔に滅びた国より伝わるという讃美歌です」

クリフトは微笑んだ。

「”わが主のみわざは”。

神がなさった行いは全て良いのだと、その御心の尊さを讃える歌ですよ」

「全て?すごいのねえ、神様は」

アリーナは素直に感嘆した。

「毎日の中でやることなすこと、その全部が間違いなく良いことだなんて。

わたしはすぐに「どうしてそんなことをするのですか!」って怒られちゃうし、ああ、失敗しちゃったなって後悔もたくさんするし、どんなに頑張ったとしても、神様みたいに正しい存在になるのは到底無理だわ」

「神のみわざは、すべて正しい。御心のままに従いゆこう。

主こそはわが神、悩める時の私の助け。

神のみわざはすべて正しい。

私の悩みと病を癒し、私を省み御心にとめ、そのありように慰められる……」

まるで歌の持つ誘引力に引き込まれてしまった一匹の頼りない蝶のように、クリフトは心ここにあらずと言った様子でぼんやりと呟いた。

窓から雨を含んだ風が吹き込み、湿ったその香りで夢から醒めたようにアリーナを見下ろす。

「……あ。今、なにかおっしゃいましたか」

「もう!また聞いてなかったのね」

アリーナは深々とため息をついた。

「いつもそうだわ。お前の心は神様で占められちゃうと、それ以外のことをぜーんぶ綺麗に弾き出してしまうんだから」

「そ、そうではありませんが」

クリフトは困ったように肩をすくめ、アリーナの背中を優しく引き寄せた。

「ただ、ふと考えたのです。

この歌がわたしたちに伝えたいのは、神のみわざが必ずや正しいということではなく、正しいと信ずる神を尊ぶ誠実な心のありようこそが、人々を安らぎの道へ導くのだ、ということではないかと」

「なにが言いたいのか、ちっともわかんないわよ」

アリーナは拗ねたように、クリフトの胸に頬をこすりつけた。

「確かに、古き良き讃美歌の音色は素晴らしく、その歌詞が訴える言葉はとても尊いわ。

でもわたしは目に見えない神様なんかより、今ここにいるお前の言葉を一番に信じていたいの」

「それもひとつの、大いなる真理ですね」

「だから、クリフト。せっかくのふたりきりの時間なのよ。

神学校の授業のようなむずかしい話は、もうこのへんでおしまいにしましょう」

「はい、姫様」

クリフトは笑って頷き、窓の掛け金を回して丁寧に鍵を閉めた。

くるりと振り返り、両手を伸ばしてアリーナの体を横抱きに抱きかかえる。

「きゃっ!」

「主こそはわが女神」

低い声が悪戯っぽく囁いた。

「アリーナ様、あなたのみわざはいつも正しい。地上の女神の御心に、わたしはいつだって従いましょう。

愛しています、貴きあるじ。主よ、癒し省みるわが神よ。わたしは永遠にあなたを想う……」

さっき美しい旋律を奏でたばかりの唇が、今度は楽しそうに微笑みながらいとしい少女の唇をふさぐ。

「ねえ、もう一度聞かせて」

アリーナはクリフトの耳元に唇を寄せ、そっと告げた。

「ルララ、古くから伝わる魔法のような歌を。

甘い音色に身をゆだねて眠り、今夜はお前とふたりで幸せな夢を見たいのよ」

「はい。仰せのままに」

クリフトは頷き、アリーナのなめらかな額にとんと顎を乗せた。

ひどく厳粛めかした表情で片手を眉間に押し頂き、十字を切ると、それからすぐに我慢できなくなったようにくすくすと笑う。

「アリーナ様、わが主。悩めるわたしの至高の女神。貴女の魂のありように、わたしは永遠に従いゆきます。

でも、幸せな夢を見るのはまだ少しだけ我慢ですよ。

こんなにも愛しい貴女を、このまますぐに眠らせてしまうわけには参りませんからね」





Was Gott tut、 das ist wohlgetan………





覆いかぶさるクリフトのなめらかな唇や、さらさらしたまっすぐな髪。

(神のみわざは、すべて正しい。御心のままに従いゆこう。

主こそはわが神、悩める時の私の助け。神のみわざはすべて正しい。

私の悩みと病を癒し、私を省み御心にとめ、そのありようになぐさめられる……)

耳に触れる唇からぽろぽろと落ちる、絶え間ない古く懐かしい歌。

(……神様?)

アリーナはふと瞼にほのかな光を感じて、きつく閉じていた目を恐る恐る開いた。

(そこにいるの?あなたが、わたしの神様なの?)

自分を抱きしめる青年の、長い睫毛から覗く底知れない海のような瞳。

その永遠の蒼色の中に、まだ見ぬその気高い姿を一瞬だけ透かし見たような気がしたが、ろうそくの光のようにおぼろげな気配は目を凝らすと、たちまち跡形もなく消えてしまうのだった。

(神のみわざは、すべて正しい。御心のままに従いゆこう。主こそはわが神、悩める時の私の助け。



神のみわざはすべて正しい。




ああ、神のみわざはすべて正しい………)





―FIN―


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