未来絵図
小高い尖塔の中腹に穿たれた円窓から顔を出すと、琥珀色の風が頬を撫でる。
庭園で鈴生りに土と戯れるローズマリーやレモンミントの芳香がここまで漂って来て、アリーナは目を閉じて大きく息を吸い込み、瞼を通り過ぎる秋の香りを味わった。
「うーん、気持ちいい。
でも……」
「さっきから同じ所をうろうろしてばかりで退屈、でしょう?」
後ろから物柔らかな声が、笑みを含んで尋ねる。
「本当はアリーナ様もこのままお隠れになってしまいたい、そう思っている」
「うん。王妃の威厳なんてどこかにうっちゃって、わたしもここで遊びたいわ。
この長ーい塔全部を使ってかくれんぼなんて、すごく素敵じゃない?」
「アリーナ様は見つかりそうになったら、壁を蹴破って飛び出してしまいそうで、気が気ではありません」
「そして、探す鬼は当然」
「わたしですね」
「正解!」
アリーナは花がこぼれるように笑い、後ろを歩く人物の腕に飛びついた。
「大丈夫よ、もうわたしも大人だもの!勝手に飛び出したりなんてしないわ。
それに、お手本にならなくちゃいけないんだもんね。お前とふたりで一緒に」
「既に十分、なっていると思いますよ。
鉄格子を飛び越えて塔の中に入ってしまうなんて、貴女を見習ったとしか言いようがありませんから」
声がふと心配げに低くなった。
「それにしても、こんなに探しても見つからないなんて……一体どこへ行ったんだろう」
「あっ!」
アリーナが目を丸くして指差した。
「見て!ここ!二階の壁が崩れてる!」
「な……まさか、冗談が真実になるなんてことは」
ふたりはその場に屈み込んで、崩れた壁に見事に開いた空洞から、恐る恐る下を覗き込んだ。
そして二人揃って「いた!」と叫んだ。
「こらあ!戻って来なさい!」
アリーナは眉を吊り上げた。
「こんなに心配かけて……どれほど探したと思ってるの?かくれんぼはお城の中だけだって、言ったでしょう!」
「だあって、つまらないんだもん」
小雀のヒナのような甲高い声が、むきになって叫び返した。
「退屈なお城なんか今すぐ飛び出して、腕だめしの旅に出かけたい!」
「む……そ、そうね、気持ちは解らなくもないけど」
「こらこら、貴女が賛同してどうするんですか」
アリーナの傍らにいた背の高い姿の青年が、仕方なさそうにため息をついた。
床に体ごと倒すと、身を乗り出して階下の小さな影へ手を伸ばす。
「おいで」
甘く清らかな弦楽器の調べのような、優しい声。
「こっちにおいで」
「やだ。帰りたくないよ。お城はつまんない」
「そうだね、つまらない」
声の主がにっこりと微笑んだ。
「でもつまらない暮らしの中に、ほんとうはたくさんの秘密が隠れていることを知っているかい?
たとえば城門の塀にあるムクドリの巣で、五つも卵が孵ったことや、厩番のジョージが、庭園に噴水塔のついた動物たちの憩いの場を作ったこと。
書庫にこっそり住みついていた大ネズミは、年を取って魔法のモルヒュースに変わり、果樹園のミツバチは、かぐわしさに誘われプラムからリンゴの木に引っ越した。
君は逃げ回る役じゃなくて、かくれんぼの鬼だ。
変わらない毎日の中から「楽しい」と「嬉しい」をたくさん探すことが、今の君の大切な仕事なんだよ。
それに……」
広い掌が紅葉のような小さな手を引き寄せて、包んだ。
「いつか君が本当にそうしたいと願った時、望みが叶う時がきっと来る。
だから今はまだもう少し、一緒にいてくれないかな。
君のことが大好きで仕方ないお父さんと、お母さんと一緒に」
「……うん」
おとなしく頷いた体を引き上げて抱き締めると、唇が丸い頬へ寄せられる。
「小さな天使」
蒼い瞳がいとおしげに細められた。
「君はお母さんと同じ匂いがする。
日なたの匂い。ひまわりの匂い。大地を照らす、輝く太陽の匂い。
わたしの大好きな匂いだ」
「ねえ、それよりちょっと聞きたいんだけど」
アリーナは難しい顔をして首を傾げた。
「あなたこの壁、一体どうやって壊したの?」
「うん、えっとね」
鈴のような叫びが誇らしげに辺り一面に響く。
「蹴った!!」
アリーナの顔と、傍らの顔がびっくりしたように見合わせられ、それからすぐに三つの笑い声が、鐘の音のように尖塔の頂上まで鳴り渡った。
「ほらね、もう見本になっているじゃありませんか。貴女は立派に」
優しい声が楽しそうに囁く。
未来へ続く命の絆を繋ぎ合わせる、幸福な言葉。
「無理に教えようとすることも、隠そうとすることもない。
翼の生えた貴女の魂は、たんぽぽの種のように舞い飛んで、こうしてちゃんと花を咲かせている。
だからわたしたちの方こそ、日々学ぶべきなのですよ。
小さな天使があちこちに印す、無垢で透明な足跡に。
だってこういうでしょう?子は親の鑑……って、ね」
―FIN―