闇夜の後に-Before 長編「下弦の月の夜」-


「あ」


クリフトの唇が、わたしの肌を滑る。


夜露に濡れた桔梗の花が、青紫色の光をきらきらと落とすように、切ない吐息が絹のシーツの流線を滑る。

わたしはこのまま自分の意識が、海の藻屑のように消えてしまうのではないかと怖くなり、両手を伸ばしてクリフトの身体にしがみつく。

「アリーナ様……?」

こんな時でさえ、クリフトはわたしを呼び捨てにしない。

寄る辺ない子供のように、女にはたやすく扱われてみたい時だってあると、こんなに長く共にいてもまだ解らないのだ。

彼の真摯な唇が触れていないところなんて、もうわたしの身体の何処にもないというのに。

「泣いているんですか」

瞼の端を指先で撫でながら、クリフトが驚いたように蒼い目を見開いた。

「どこか、痛いの?」

的外れな問い掛けさえ愛しくて、わたしはこぼれ落ちる涙をそのままに、小首を傾げて微笑む。

「あのね、このまま死ねたらすごく素敵だなって思ったの」

クリフトは眉を寄せて、端正な顔を不思議そうにしかめた。

「素敵じゃありませんよ」

「そうかしら。お前とこうしてひとつになれたまま、つがいの蝶が力尽きて地面に墜ちて行くみたいに、ふたり一緒に死んで行くのよ。

そしたらきっと、あの世でずっと傍にいられる。

向こうではもう絶対に、わたしたち離れることはないの。すごく素敵でしょ」

長い前髪が汗ばんだ額に被さり、クリフトはどこかが痛むように唇の端をきゅっと歪めた。

きっとわたしの言葉を、痛烈な厭味だと思ったのだろう。

五つも年上なのに幼くて、愚かしいほど生真面目な彼。

聖なる十字架の前で、王家の環を着けた他の男と誓いを交わしたわたしを、命懸けで引き止め、奪えなかった事を悔い続けている彼。

会う度に痩せて行く、なめらかな身体。

夜を忍んで抱き合う彼の裸身には、罪と罰の烙印が押されている。

わたしがあの事を告白してから、彼は食事を喉に流し込む事すら満足に出来なくなった。

わたしはそれを、誇らしく思う。

いつでも掌に彼の命を握っているということが、身体の芯まで深い満足を与えてくれる。

わたしは多分、病んでいるのだろう。

自分で思っている以上に、クリフトを憎んでいるのだろう。

王家への忠誠と神の掟に囚われて、他の男に手を引かれ婚礼の祭壇に上がるわたしを茫然とただ見つめるだけで、決して引き止めようとはしなかった彼を。

夜ごと忍んで教会に会いに来るわたしを、頑なに拒もうとしながら、ひとたび身体を寄せ合えば、狂おしいほどの愛を滲ませて抱きしめる彼を。

だから罰を与えたのだ。

わたしが、他の誰かのものになってしまうという罰。

告げた瞬間、彼の蒼いふたつの瞳は、無限のような虚空に包まれた。

見えない矢に貫かれた彼の身体から、声なき叫びが漏れる。

温もりある柔らかな愛の息吹が、たった一秒で死に絶える瞬間。

彼の心の中で何かが死んだのを、わたしは目の前でありありと見た。

「……解りました」

彼が絞り出すように囁いた言葉は、ただそれだけだった。

幼い頃から、クリフトが温めて続けて来た大切ななにかを、わたしがこの手で殺した。


後悔している?


後悔している。


ならば何故、わたしは緩やかに痩せ、やつれさらばえて行くクリフトを見て、こうして微笑みながら、被虐的な喜びを感じているのだろうか。

わたしは病んでいる。

そして多分、クリフトも。

土から離された樹木は、やがて枯れて無残に朽ち果ててしまう。

生き延びる方法は、たったひとつしかない。


わたしはそれを、待っている。

彼の口が今度こそそれを告げるのを、もう長いこと、ずっと待っている。



雲が去る。


もうすぐ、下弦の月の夜が来る。





-FIN-



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