天使が来る夜-I wanna kiss-
眠れない夜は、いつもあなたを思う。
そうすれば心が灯のようにぽっと温かくなって、とげだらけにささくれだったもどかしさが、淡雪のように優しく溶けて消えて行くから。
ねえ、クリフト。
こんな月の明るい夜は、あなたもわたしを少しは思ってくれている?
王城の窓から顔を出すと、町並みの中に蔦の絡まる小高い尖塔を覗かせている、石造りの古い教会が見える。
祭壇に膝まづき、頭を垂れて静かに祈りを捧げる姿は、まるで彼自身が翼の生えた天使であるかのように、限りなく無垢で静謐。
後ろから忍び足で近付いて、突然背中から思い切り抱きつくと小さく声を上げて驚き、振り向いてわたしを認めては、切れ長の蒼い目を細めて笑う。
長い睫毛にくちづけ、そのまま彼をお城へ連れて帰ってしまいたいけれど、そうもいかなくて。
神と共に生きて行くために、彼を切実に必要としている人々が、この街には溢れているから。
わたしはいつもこうして、夜空に会えないあなたを思う。
すらりと背の高い身体に、磨き抜かれた水晶のような澄んだまなざし。
細く長い指、珊瑚色のきっぱりした唇。空気まで和らげる、物静かで低い声。
なにもかもが愛おしくて、全てを自分のものにしてしまいたくて、でも出来なくて。
だからわたしは金色の月に、届かぬ願いを託して投げた。
「どうか、今夜クリフトに会えますように。ほんの少しだけでいいから」
それから少し考えて、ほんのり贅沢な付け加えも。
「会えたら、いっぱいいっぱい、キスしてくれますように。
わたしが好きだって言ってくれますように」
「わたしはいつでも、アリーナ様の事が好きですよ」
不意に後ろから掛けられた、織りたての絹のような柔らかな声。
わたしは思わず瞬きすることすら忘れて、夜空に浮かぶ月と向かい合う。
これは、夢?
それとも、もう叶えてくれたの?
痛いくらい高鳴る心臓の音を聞きながら、わたしは微かに唇を震わせた。
こんなに期待して、振り向いて、もしそこに誰もいなかったら?
夜を統べる妖精ナイトメアが振り上げたワンダーワンドの作る、からかい混じりの悪戯だったとしたら。
首を傾げて舌を出し、馬鹿なアリーナと自分を笑うことで、こんなに弾ませてしまった愚かな心をなだめることすら、きっとわたしには出来ない。
振り向くのが怖い。
でもちゃんと、見なくちゃいけない。
なによりも大切で、愛しくてならないあなたがほんとうに今、そこにいるのかを。
ぜんまい仕掛けの人形のように硬い仕草で、おずおずと振り返ると、
彼はいた。
白い歯を見せて、笑ってる。
「どうして?」
まるで自分のものじゃないような、か細く頼りない声が洩れる。
「どうしてここにいるの?クリフト」
「侍従長のカーラさんに、特別に手引きをして頂きました。今宵、神に捧げる月夜の祈りを、姫様と共に」
じゃあ、これは夢じゃないんだ。
そうはっきりと解ったのは、しなやかな腕がわたしを抱き寄せて、引き締まった胸に頬を埋め、白檀の香りを体の奥深くまで吸い込んだ瞬間だった。
「聖なる月の天使の助けを借りて、参りました」
クリフトは微笑みを含んだ声で言った。
「アリーナ様、貴女の願いを叶えるために」
「わたしの願いって?」
ほんとは解っているのに、わざと問い返すのは、精霊の羽ばたきのようなその囁きを、もっと聞いていたいから。
でもクリフトは、もう答えはしなかった。
涼やかな息が額を撫で、睫毛の下から蒼い瞳が覗く。鼻先と鼻先が触れ、そっと顎を持ち上げられる。
唇が重なり、全身に痺れるような喜びが駆け抜けて、わたしは目を閉じて、大切な願いが叶えられた幸福に心から酔いしれた。
「お月様に、お礼を言わなくちゃ」
顔中に甘いキスの雨を降らせ、ようやく離れた唇からこぼれた呟きに、クリフトは微笑み、わたしの両頬を掌で包んだ。
「お月さまだけではなくて、わたしにはないのですか?貴女様からの労りのお言葉は」
「もちろん、あるわ。それから命令もひとつ」
「なんでしょう」
「まず、お礼を言わせてね。来てくれてありがとう、クリフト。
すごくすごく、体がよじれちゃうくらい逢いたくてたまらなかったの」
クリフトはにっこりと笑い、わたしの鼻の頭に音を立ててくちづけた。
「身に余るお言葉、有り難き幸せです」
「それから、今度は命令よ」
「なんなりと」
「月が消えてしまうまで、ううん、消えてもここにいて」
わたしは顔を赤らめ、着ているナイトドレスの裾をもじもじと引っ張った。
「月の女神様にささげる祈りが終わっても……お願い、まだ帰らないで」
だが答えはない。
わたしは不安になって顔を上げようとしたが、両頬をしっかりとクリフトに包まれていて動くことが出来ない。
すると一瞬の静寂の後、まるで、これは永遠に自分のものなのだと印を刻むように、もう一度、今度は長く深いくちづけが降りて来て、
わたしは呼吸することすら忘れてしまうほど甘く切ないキスに、深々と身を委ねた。
「一応演出上では、月の天使の力を借りてやって来たということになっているんですけど」
唇を離すと、クリフトははにかむように笑って、わたしの背中を引き寄せた。
「このままここにいれば、わたしは天使にあるまじき事をしてしまいたくなります。かまいませんか?」
わたしは彼の身体に両手を回し、子供のようにことんと首をもたせかけた。
答えなんて、言うまでもない。
だって恋する二人には、それがなにより月や星、この世の全てに祈りを込めても欲しいもの。
精霊が空をめぐる夜、天使がわたしの元に舞い降りて、願いを叶えてくれたら目も眩む幸せが訪れる。
わたしはクリフトの頬に唇を押し当てて、悪戯っぽく囁いた。
「きっと、叶うわ。
クリフト、それがあなたの願いなら」
今夜やって来た蒼い目の天使は、見えない翼を広げ、わたしににっこり微笑んだ。
-FIN-