スワロウテイル・バタフライ



「結ばれる」って言葉は素敵。


ほら、たとえばうっかりちぎれてしまって、あわてて堅く結んだ靴紐だってそう。

長さが足りない二本の紐が、ぎゅっと結ぶと一本になる。

繋がってしまえばあとはかんたん、雨が降っても風が吹いても、同じように濡れて同じように揺れて、やがて最初は別々の存在だったことすら忘れ、

ふたつはひとつ、ひとつはふたつ、いつしか元々の数も形もわからなくなるほど水のように溶けて、飴のようにとろけて、すっかり混じり合う。

眩暈がするほど圧倒的なその心地良さを知ってしまったわたしは、いつしか願うようになった。

それはじつにわたしらしく、火のような激しさで。



(大好きでならないあの人と、ずっと……ずっと、



結ばれていたい!)






スワロウテイル・バタフライ








「駄目」

目を開けたわたしの第一声を聞いたとたん、クリフトはあっけに取られた顔をした。

「……はい?」

「だから、駄目」

「な、なにがでしょうか」

「離れちゃ駄目」

すぐ真上にある、まださきほどまでの熱の名残をとどめたままの蒼い目が、はっきりと困惑の色を浮かべる。

「で……でも」

わたしはクリフトの裸の背中に両腕を巻きつけ、ぐいと力任せに引っ張った。

胸と胸が勢いよくぶつかって、彼が小さく咳き込む。

「今夜はこうして、朝までこのままの状態で寝るの。だから絶対に離れちゃ駄目!」

「し、しかしこれでは、アリーナ様はずいぶんと重いでしょう」

クリフトはわたしの耳の横で肘を立て、慎重に体重をかけないようにして言った。

「それにずっとこうしたままで、眠れるわけなどないじゃありませんか」

「あら、どうして?わたしはぐっすり眠れるわよ。

この世でいちばん幸せな形のままで、ふたりいっしょに夢の世界に飛び込むの」

「わ、わたしには、どうやらそれは難しいかと」

「そう?じゃ仕方ないわ」

わたしは意地悪心を起こして言った。

「じゃあ眠るのは止めて、このまま続けてもう一回」

「ええっ」

クリフトは焦った。

「も、もう今夜はこれで五回目……!

さすがにわたしもこれ以上は無理……い、いえ、その」

「なによ、まさかお前はわたしとこうするのに飽きちゃったっていうの?」

「とんでもありません!」

低い声があわてたようにうわずる。

「わたしはいつだって、この世で最も愛する貴女の全てに触れていたい。

ですが……で、ですが男には、その、色々と事情というものがありまして……今すぐには無理ですが、もう少し時間をおけば、な、なんとか」

困って傾げた彼のすんなりした首の付け根から、朝露みたいに透明な汗がつうと落ちる。

さっきまであんなにかすれて、抑えた声でせつない愛の言葉をささやいていた唇が、一刻を置いた今は子供のように頼りなく突き出される、そのギャップをなによりいとしく思う。

「お前とひとときだって、離れていたくないの」

わたしはクリフトの頬を両手で包んだ。

「こうしてずっと繋がったまま、ひとつの生き物になってしまいたいくらいなの。

たとえば頭が女でしっぽが男の、大きなミミズみたいに」

「ミミズ……ですか」

クリフトは複雑な表情を浮かべ、それから昇って来たあくびをかみ殺した。

「もう!わたしの話、ちゃんと聞いてるの?」

「は、はい。ミミズ、とてもいいですね。是非一度ふたりでなってみたい。

でももう、今夜はこのへんで休むことにしませんか。

貴女と何度も夢中でこうしたから、申し訳ありませんがとても……、

とても眠くて………」


呟きが次第にあやふやになる。

輪郭がおぼろげになった語尾が伸びて、ふつりと声が途切れると、ふいにしなやかな身体が脱力して、彼の重み全てが一気にこちらにのしかかって来た。

「きゃっ!」

(お……重いわ!)

肩を押す尖った顎。鼻先をくすぐる柔らかなおくれ毛。

耳のすぐ裏側から響いて来る、すうすうと言う寝息。

(これじゃ眠れるわけがないって言ったくせに、もう寝ちゃってるじゃないの)

わたしは呆れた。

「ちょっと、クリフトったら。勝手にひとりで寝ないで。起きてよ、ねえってば」

むきだしの両肩をゆさゆさ揺さぶると、「ん?」と一瞬目を開けてこちらを見たけれど、淡い意識のほとんどは眠りにさらわれているのか、優しい瞼はすぐにまた閉じられてしまう。

(なによ、もう!)

わたしは諦めて、だらんと力を失った彼の頭を両手で抱えよせた。

指を差し込んでたぐり寄せたさらさらの髪に、すっぽり顔をうずめる。

(……いい匂い)

濃くて甘い白檀の香りに混じった、もぎたての蜜柑みたいな甘い汗の匂い。

この匂いを吸い込むと、その日の不安も悲しみもなにもかも、泡のように溶けて消えて行く気がする。

クリフトの匂いで、わたしの全部が満たされる。

自分以外の誰かの身体の重みと、汗がこんなにも素敵だってことを、教えてくれたのはまぎれもなく彼だ。

(少しも離れたくないよ、クリフト)

わたしは目を閉じた。

(このまま)

(このまま、ずうっとこのまま繋がっていたいよ)

目を開くと、カーテン越しの窓に青紫に煙る東の空。

朝が近づいて来る。

静寂を切り抜いたような無音の薄絹が、貝のように重なるふたりを包むから、無垢な寝息を子守歌にしようとしたけれど、やっぱり彼の言った通り、これじゃあさすがに眠れない。

わたしは掌でなだらかな胸を押し上げて、悪戦苦闘した挙げ句、ようやく眠るクリフトの下から脱出した。

ふたりの身体が完全に離れるその瞬間。

あれほどきつく結んだはずの紐は、あまりにあっけなくほどける。

さっきあんなに感じた、ひとつになれたという幸福感がまるで水のように身体の端々からこぼれ落ちて、わたしはもう既にまた彼を欲しくなっていることに気づき、そんな自分を少しだけ恥じた。


(どうしてなんだろう)


(何度結ばれても、絶対にするりとほどけてしまう)


(わたしとクリフト、寄せては返す波と砂みたいに、重なってはまた離れて)


ああ、そうか。



だから繋がりたいんだ。



この手にとどめておけないものを、なにより愛しく思うからこそ、何度でも不確かな手触りを、熱さをたたえた命と命を、


この身体全部を使って消えない絆で、結び合わせるために。


わたしは身体を起こすとふと思い付いて、うつぶせて眠るクリフトの背中に唇を寄せた。

(ひとりでおいてけぼりにされちゃったんだもの。

このくらいの悪戯、許してくれるわよね)

数秒の沈黙のあと顔を上げて、美しい肩甲骨の下に刻まれた鮮やかな痣を見る。

それはまるで我を忘れて蜜を吸ったために捕らえられてしまった、哀れで無邪気な紫色の蝶。


いつ気づくかな。


わたしの仕業だって、気づいてくれるかな。


鈍感で身なりに構わない彼のことだから、もしかしたらずっと気がつかないかもしれない。

だとしたらわたしは何度も繰り返し、紐から放たれたこの背中に限りなく愛しい蝶を飛ばそう。



別々の身体を並べて、残された夜をわずかな眠りに落ちて行くふたりの間に、シーツの波と艶やかな髪で出来た砂が、重なって離れてまた重なって、溶けた。





―FIN―



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