遺志



其の終・遺志





夏。


柔らかな霞風が東に去る頃、木々は太陽の恩恵を誇るようにみずみずしく伸び、若葉は濃さを増していく。

赤や青の美しい羽根で身を飾った南方の鳥たちは朗らかにさえずり、訪れる季節の香気を妙なる音楽で彩った。

優美な春花が土に還り、大地は緑の楽園になる。

辺り一面が黄緑と青緑、深緑の饗宴。

その鮮やかさは瞼をすり抜け、瞳に沁み入るほどだった。

「ねえ、ねえ、知っている……?」

川べりの水車が回るのに合わせて、澄んだ声が軽やかに歌う。

雪のように白い額に滲んだ汗が、太陽の陽射しを受けて眩しく輝く。

「お空の星が落ちるのは、可愛い子供が……」

声はゆるゆると歌いかけて、自分が選んだ歌の内容の哀しさに、思わずふっと微笑んだ。

残酷でも、不吉でも、どうしても歌ってしまうフェアリーテイル。

のどかな牧歌も厳かな聖歌もたくさん覚えたけれど、いつも口をついて出るのはなぜか子供の頃、彼と一緒にうたったこの歌ばかり。

歌を止めると立ち上がり、水車に手を入れて豊かにあふれ落ちる水の冷たさを味わう。

五感が受け取る心地良さに目を細めると、そのまま足元の手桶に水を汲んだ。

もうずいぶん長いこと使っているらしい水車と、同じ木材で作られた古びた木製の手桶。

熟練した木工職人の技なのだろうか、水輪にも桶にもナイフで刻まれた紋様が精緻な蔓草を描いていて、人の手によるものとは思えないほど美しい。

「お母さん」

「おかあさぁん」

「お母さんっ!」

その時、後ろからぱたぱたと子犬が走るような足音がいくつも響いて、甲高い声が打楽器の重奏のようにぶつかりあった。

「ねえねえ、お母さん!今日は週に一度の礼拝の日でしょ?はやく教会に行こうよ」

「早く、早く!人間の街に行くのはだーいすき。

色んな人が優しく話しかけてくれるし、珍しいものがたくさんあるもん」

「ぼく、ブランカに着いたら一番によろず屋さんに行くの。蜂蜜飴とビスケットと、新しい本を買うんだ」

「でもお兄ちゃん、わたし、やっぱり村を出るのは怖いよ」

どうやら女の子のものらしい、あどけなく頼りない声が泣き出しそうに震えた。

「もしもこないだみたいにまた、途中の道で狼に襲われたら?」

「全然へいきさ。あの時もお父さんが全部、あっという間にやっつけてくれたじゃないか。

ね、大丈夫だよね。お母さん。またお父さんが助けに来てくれるよね!」

「お母さんはいつだって、お父さんと一緒なんだもん。

困った時は、お母さんは魔法でお父さんを呼んで、僕たちを守ってくれるんだ。

お母さんがモシャスの魔法を唱えたら、星の海からお母さんの体にお父さんが降りて来て、僕たちのことを助けてくれる。

だからぼくたち、離れていてもいつだってお父さんと一緒なんだよ」

「お父さん、すっごくきれいだよねえ。緑のおめめがきらきらして、まるで絵本の中の天使様みたい。

わたしを見て、優しく笑ってくれるの。また会いたいな」

「ねえねえお母さん、どうしても困った時だけじゃなくて、もっとたくさんお父さんに変身してよ」

「駄目だよぉ。お父さんだって、お星様の海でとっても忙しいんだから。頼ってばかりじゃいけないんだよ。

小さかったから覚えていないけど、わたしたちにいつも言ってたんでしょ。俺の代わりに、お前たちが強くなって母さんを守れって」

「ぼくは覚えてるよ」

小さな女の子にお兄ちゃんと呼ばれた声が、凛として呟いた。

「ぼくは覚えてる。ぼくたちを最期まで守ってくれた、大好きなお父さんのことを。

強くて、かっこよくて厳しくて、いつもあんまりしゃべらなかったけど、笑うとすごく優しい目をしてくれた。


……でもどうしてだろう、時々子供みたいに見えたんだ。


お父さんはおとなだったけど、中身はぼくと同じように、ほんとうはさびしがりやの、ひとりぼっちが嫌いな子供だったんじゃないかって」



「そうよ」

その時、白いなめらかな手が滑るように降りて来て、小さな頭を順番に撫でた。

「お父さんは、みんなと一緒にいるのがとっても好きだったの。

だからきっと今もここにいて、わたしたちのことを見つめている。

お父さんが遺してくれたこの平和な世界で、わたしたちが幸せに生きていけるように、いつも守ってくれている。

だからわたしたちは明るい太陽の下、自分の足で人間の街に向かうことが出来る。

精霊も人も動物も、どんな名前の命も分け隔てなく触れ合い、語り合い、心を許して笑い合うことが出来る。



種族や顔かたち、性別、肌の色……全てを越えて心と心がまっすぐに繋がる世界を、あの人が遺してくれたから」








この世界が今あることが、あなたがわたしにくれた遺志。









「さあ、行きましょう」

小さな手を左右に握り、人影は虹の形に並んだ。

子供たちのはしゃいだ声が空高く響く。

「行って来まーす、お父さん!」

「行って来ます!」

「すぐに帰って来るからね。待っててね!」

次々に叫ぶ幼い出発の挨拶に、シンシアは微笑んだ。

村の中心にある花畑に立てられた天空の剣に向かって叫んだそれが、だがじつは意味のないものだということを知っていたからだ。



ねえ、あなただってそう思ってるんでしょう?



本当はわたしの隣で、今も楽しそうに笑ってるんでしょ?



「挨拶は上出来だ。でも残念だな、俺がいるのはそこじゃない」って。



いつも一緒にいる人に行って来ますを言うなんて、変だもんね。





子供たちの駆ける足音が近づくと、木々を舞台に歌っていた鳥たちの群れが、水しぶきが弾けるように一斉に飛んだ。


シンシアは村を出て歩き始めた。


見上げる空はどこまでも広く、蒼い。


太陽はこの夏の晴天を約束するように、南の空の一番高い所で、今日も黄金色の光を放ち続けている。





-FIN-


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