遺志



其の四十二・幸福





ルーラの呪文で時空を越える。

永遠のような一秒の混沌の後、堅い地面に着地した感覚が足を打つ。

双子の子供のように寄り添うふたりが同時に目を開けるとそこはもう、郷里の山奥の村だった。


帰って来た。


勇者の少年とシンシアは、呪文を唱える前と同じように身を寄せ合ったまま、村の入口にぼんやりと立っていた。

どうしてだろうか。

もうとっくに移動魔法は解け、ちゃんと返るべき家に辿り着いたのに、なぜか動くことも話すことも出来ない。

ふたりは並んで立ったまま、眼前の自分たち以外誰もいない静かな村を、言葉もなくただ眺めた。


ここがふたりで育った故郷。


ひとたび全てを喪い、今また緑が広がる村。


同じようで、なにもかもが違う。


若葉が覆う無音の景色に、さざ波が広がるように、ひたひたとざわめきが走る。

しじまから生まれた光が辺りを揺らし、やがてもう失われて二度と戻って来ない、まぼろしの情景がふたりの瞳いっぱいに広がっていった。

風にはためく、洗いたての洗濯物。

窓の端から昇る食事を炊ぐ香ばしい蒸気と、絹を折るがたがたという機織り機の音。

水車から川へこぼれ落ちる、豊かな水のせせらぎ。鋳造したての剣を打っては研ぐ、かーん、かーんという澄んだ音。

午睡を醒まされた山猫の気だるげな欠伸、村人たちの明るい笑い声。

皆がこちらに気付いて振り返ると、冷やかすような笑顔で一斉に大きく手を振る。


(やあ、お帰り!)


(お帰り、ふたりとも)


(坊やったら、どこに行ってたんだい?もうお昼だよ。父さんに弁当を届けておくれ。

どうせ釣れやしないのに、朝からずっと川に行ってるんだよ)

(シンシア、今日もいい天気だね。一緒に洗濯を手伝ってくれるかい。坊やは剣の稽古でしょっちゅう服を汚すから)

(やあ、弁当か。ありがとう。悔しいが今日も一匹も釣れなかった。これじゃまた、母さんに叱られてしまうな)

(よく来たな。さて、稽古を始めるぞ。剣はちゃんと磨いてきたか?手加減は一切なしだ。

誰よりも強くなりたいなら、思い切りかかって来い!)

(いいぞ。さすが勇者だ。お前はいつか、誰よりも強くなる)

(強くなれ。なにものにも負けないほどに)

(強くなんかなくたっていいんだよ、坊や!あたしは、あたしはお前さえいてくれたら)

(生きろ。わたしの息子)

(坊や、愛してる)

(愛してる、シンシア)

(あたしの息子と娘)



(生きて)




(どうか、生きて)







まぼろしは消えた。

「……シンシア」

長い長い、途方もなく長い沈黙の後、勇者の少年がぽつりと呟いた。

「俺さ」

「うん」

隣でシンシアが頷いた。

「もう二度と、失くしたくないんだ」

「うん」

「でもまたいつか、ひとりぼっちになるんじゃないかと思うと、いつもものすごく怖い」

「うん」

「だから……」

「大丈夫だよ」

シンシアは手を伸ばして、少年の頬に触れた。

「なにも説明はいらないの。

わたしの未来はいつも、あなたが選ぶ未来だから」

「俺は、お前をずっと守りたい」

少年はシンシアの手を取って、甲に唇を押し当てた。

「傍にいてそう出来ないのなら、お前を守れる世界を作りたい」

「あなたはいつも、わたしと一緒だよ。前にも言ったでしょう。

もしもこの身体を失っても、形をなくしたふたつの目で、かならずわたしたちは見つめあえる」

「ごめんな、シンシア。

……俺、行かなくちゃいけない」

勇者の少年は呟いた。

「ごめんな」

シンシアを引き寄せ、頭ひとつ小さい体を抱きしめると、少年の両方の瞳からこらえていた涙が一筋こぼれた。

「遺されるのが、辛くてたまらないことを知っているのに。

俺、お前とずっと一緒にいてやれない」

「わたしたちはいつも一緒なのよ。あなたがそう気付いていないだけ」

「お前と離れたくない」

少年は子供のように繰り返した。

「もう、どこにも行きたくない」

「うん」

「お前の傍にいたい。このまま世界が終わってしまってもいい」

少年はシンシアの肩に顔を埋め、声を殺して泣いた。

シンシアは黙ってじっとされるがままになっていた。


どうしてだろう。


間もなく訪れる別れを目前にして、こんなにも満ち足りた気持ちでいられるのは。


きっとわたしは、こうするために生まれて来たのだ。


ぶっきらぼうで人嫌いで、誰にも心を開かない寂しがり屋の緑の目の男の子が、全てをさらけ出して泣く場所を作ってあげること。


ルビーでもエメラルドでもない、宝石よりも美しい無色透明の涙で心を洗う場所。


たくさん頑張ったんだね。


みんなのために、精一杯無理をして来たんだね。


そしてこれからも。


本当はいつだって泣き虫なのに。


でもだいじょうぶ、いつもそばにいるよ。


どんな時も一緒だよ。


あなたはひとりじゃない。






強くて、でも誰よりも弱くて怖がりの、あなたはずっとわたしの幼なじみの小さな男の子。






「……ね」

シンシアは少年の耳に唇を寄せて囁いた。

「あのね、話があるの。びっくりしないで聞いてね。

でもその前に、約束して。

今からわたしが話すことを聞いても、あなたは自分で決めたことを決して変えないって。そうじゃなきゃ話さないわ」

「……わかった」

「決意を貫いて。わたしを信じて」

「信じる」

まだ涙の絡んだ声のまま、勇者の少年が素直に頷くと、シンシアの顔に微笑みがあふれた。


ああ、わたしは幸せだ。


愛する人と信じあうことが出来る。


それはどんな約束よりも、確かで揺るぎない絆。


戸惑う少年の手を取ると自分のそれを重ね、シンシアは壊れ物に触れるようにそっと、ふたつの手を下腹部にあてた。



「あのね。


今ここに、わたしたちの……」
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