遺志
其の四十一・帰郷
そして、静寂が訪れた。
勇者の少年は、言うべきことは全て語り終えたというように口をつぐみ、もう何も言おうとしなかった。
ヴェルンドは言葉を咀嚼するように何度か頷くと、皺だらけの手を振り上げてアドリアンを促した。
「さて、話は終わったようだ。なんにせよ儂らはいったん帰るぞ。アドリアン」
アドリアンははっとして、ヴェルンドの傍らに膝まづいた。
「ヴェルンド様。それでは」
「勇者のもとに厄介になるにしても、まず我らにも支度が必要じゃ。洞窟の中もずいぶん汚れておる。立つ鳥跡を濁さぬと言うであろう」
「で、では我々は……!」
「我々はもなにも、儂とお前の道はもう別々に分かたれておるのだぞ、アドリアン。そなたは天空の勇者に命を下されたではないか」
ヴェルンドは愉快そうに笑った。
「勇者に導かれし者は、神託においてその使命を必ずや果たさねばならぬ。世界を救うため、現局の打破に全力で勤しめ。
この大陸の新たな精霊王として、誇りを持ってな」
「……御意にございます」
アドリアンは頷き、その場に深くひれ伏した。
「ヴェルンド様のご威光に恥じぬよう、この身を賭して相努めて参ります!」
「じゃあ、俺も帰る」
勇者の少年はシンシアの背中をそっと押した。
「……帰ろう、シンシア」
これから着くのがただの帰路ではなく、新たな針路であると知りたくないからだろうか。
少年の無防備な声は思いがけぬほど弱々しく、シンシアはふいに息が詰まるような悲しみに襲われた。
(なんて、苦しそうなのかしら)
その手に再び剣を取り、もう一度世界を救う勇者として立つ。
そう決断を下したのに、少年は苦しんでいる。
剣士として決して体格に恵まれているわけではない、細身の彼の体内で、いくつもの苦衷や葛藤が激しい渦を巻いている。
それを悟られたくなくて、余計な口を聞こうとしないのも。
「うん。帰ろう」
シンシアは笑顔を作り、ヴェルンドとアドリアンを振り返った。
「じゃあまた、あとでね。
わたし、たくさんご馳走を作るから。来てくれるのを楽しみに待ってるね、おじいさん。お兄さん」
お兄さんと呼ばれて、アドリアンはぎょっとしたように目を瞠り、慌てて顔を背けた。
「なんじゃ、大の男丈夫が照れおって情けない。
シンシア、こいつは見てくれはこのように美しいが、曲がりなりにも成人のエルフのはしくれじゃ。
そなたが思うよりずいぶん年を取っておるのだ。お兄さんはちと無理がある」
「でも、お兄さんだわ。これから一緒に暮らすんだもの。おじいさんもお兄さんも、わたしの大切な家族よ。そう呼ばせて」
シンシアは花がほころぶように笑った。
「わたし、普通の人よりたくさんの家族を持っているの。
そしてまた、こうやって新しい家族が出来る。とても幸せなことだわ」
「行くぞ」
空を見上げ、勇者の少年がシンシアを急かした。
「もう朝だ。早く帰らないと、ブランカの国境警備隊が哨戒を始める」
「うん」
「モシャスを使うか。蛙になって、俺の懐に入れ」
「あ、それは」
シンシアはもじもじして首を振った。
「えっと、ちょっとそれは事情があって今は無理で……」
「事情?」
「えーと……あ、後から話すよ」
少年は怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上聞かず腕にシンシアの体を抱えあげた。
「なら、ルーラを使う。俺から離れるな」
「解ったわ」
「じゃあ爺さん、アドリアン。またな」
勇者の少年は片手でシンシアを胸に抱き寄せると、もう片方の手で印を切り、日頃使わないことにしている瞬間移動魔法の呪文を唱えた。
放たれた魔力がふたりの体を紫色の霧で包むと、眩暈にも似た浮遊感が体の芯を震わせる。
「天空の勇者よ、感謝する」
老ヴェルンドが小枝のようにか細い腕を持ち上げた。
「星の奇跡がふたたびこの世界を救わんことを。
そなたの拓く道に、どうか永劫の光が降り注がんことを」
「来るのを待ってるぞ、エルフの爺さん。
いいか、ひとりで死んじゃ駄目だ」
少年は珍しく懇願するような口調で言い、気恥ずかしくなったのか顔を赤くすると、迷ってからもう一度繰り返した。
「新しい仲間が来るのを、俺たちは待っている。
それとアドリアン、お前はちゃんと旅支度も整えて来い。もう二度と俺の猿真似なんかするなよ」
「な、なにを生意気な……我れに命令するなと言っておろう!」
アドリアンが怒って叫んだ瞬間、少年とシンシアの体はふっと溶けるように空中に消えた。
あとにはふたりの残像と、少女の纏っていた花の香りだけが残った。