遺志



其の三十九・命令





「我れに、提案だと……?」

唐突に名指しされ、戸惑った様子のアドリアンに、勇者の少年は頷いた。

「ああ。ついでに言うと、お前のほうは提案じゃない。命令だ」

「な、なぜわたしが、貴様などに命令されなくてはならぬのだ!」

「自分がしでかしたことのツケを、まだ払い終わってねえからだ」

少年は美しい顔にそぐわぬ、獲物を追い立てる猛禽のような目でアドリアンを見据えた。

「お前がシンシアを連れ去ったことについては、話は片付いた。だがもう一点、こっちはすぐさま解決というわけにはいかない。

お前、盗み出した進化の秘法を今も持っているな。それをこれからどうする気だ。人間に復讐するため、あちこちの街でばらまくつもりか」

「そ、そのような気は既にない!」

アドリアンは侮辱を受けたように顔を歪めた。

「確かに、そのような手を一度も考えつかなかったとは言わぬ。

だが貴様が言ったのであろう、人間と同じ行為に走るのは、きゃつらと同じ所まで自分を貶めることだと!

わたしはこの秘法を、死ぬまで秘して持ち続けるつもりだ。自戒のために。そして、このような詐術に踊らされる人間への侮蔑も込めて」

「残念だが、それは無理だ。進化の秘法はそんなに簡単に扱えるような拾い物じゃない」

勇者の少年は間を置かずに言った。

「さっきのお前の話を聞いて、状況が変わった。一刻も早く仲間たちのいる別天地に引っ越してもらいたいところだが、それは少し後回しだ。

これからしばらく協力してもらう。俺と共に来い」

「……どこにだ」

「進化の秘法を、このままこの世界にのさばらせるわけにはいかない。人間の手で培養、増幅されたものなら、人間の手で蹴りをつける。

だが、この世界は人間だけのものじゃない。動物も鳥も虫も草木も、そしてお前たちエルフも住んでいる。

悪いが少しだけ力を借りたい。次代の精霊王として、お前の力をな」

「貴様、何が言いたいのだ?何を企んでいる?」

怒りの滲んだ問いかけに、少年は無表情のまま答えた。

「進化の秘法を、完全にこの世から消滅させる。それが勇者として新たに俺に与えられた役目だ。

俺はこれから、もう一度旅に出る」

シンシアは言葉を失くして、額の真上にある勇者の少年を見上げた。


旅に出る?


彼の口から出た言葉以外のあらゆる音が、周りから消える。


体の奥に芽生えたばかりの命が、どくんと音を立てて脈動する。




また、旅に出る?






「俺には仲間がいる。世界中に」

勇者の少年はシンシアの方を見ずに、ゆっくりと話し続けた。

「今度即位したばかりのサントハイムの新王クリフトと王妃アリーナ、また摂政のブライ卿は、かつて共に戦った仲間だ。

そしてバドランドの梟雄と謳われる王国軍総帥のライアン将軍、彼も俺の仲間だ。

まずはこのふたつの国に順番に向かって、事態への協力を乞う」

「協力とは、何を」

「進化の秘法研究は、今や国単位で行われている極秘計画なんだろう。だったら俺一人がうろちょろした所で、焼け石に水でしかない。

サントハイムは古くから続く強大な国家だ。先代王妃の姻戚で、ボンモールにも太いパイプを持つ。リック国王とも旧知の仲だ。

極左的政策に走りがちなエンドールが力を持ちすぎることを、どちらの国も強く危惧している。両国が手を組めば、対秘法技術を協力開発することも可能だろう。

しかもクリフト王は、元聖職者でもある。ゴッドサイドを中心に、秘匿諜報を看板とする世界各国の寺院に顔が利く。

秘法が既に渡ってしまったブランカ内の情報も、上手く行けば教会を通じて容易に手に入れられる。

そしてライアンのバドランドもまた、気質堅固な尚武国家だ。邪悪な秘術がはびこることを善しとしない。きっと動くはずだ」

「国ぐるみで、進化の秘法と真っ向から対抗しようというのか?

馬鹿な……そのようなことが可能なはずはない。人間とは、自らに降り掛かって来ない火の粉は、恐ろしく冷たく傍観する種族なのだぞ。

いかにお前が勇者とて、民間出身の若いサントハイム王と、田舎国家のバドランドの軍人ごときを味方に、一体何が出来るというのだ」

「そいつらだけじゃないぜ。諸悪のお膝元のエンドールには、研究施設の薬品資材を逐一把握できる豪商のトルネコがいる。

城へ技芸者として間諜代わりに潜り込める、占い師や踊り子もいる。言ったはずだ。俺には世界中に仲間がいる。

何が出来るかは、いちいち説明しなくともこの手で証明してみせるさ。これまでだってそうして来た」

勇者の少年は片手を宙に上げ、掌を丸めて顔の前に掲げた。

「お前が言ったんだ。枝葉を断っただけじゃ、根は死なないってな。

だったら土を引っかきまわしても、この世にはびこる邪悪の根っこを全部引きちぎって、この俺が灰と焼き払ってやる。必ず」
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