遺志



其の三十八・提案





砂漠から風が渡り、洞窟を覆う樹木の葉を揺らす。

老ヴェルンドの足元にくずおれて嗚咽するアドリアンを、勇者の少年とシンシアは寄り添ったままものも言わずに見つめていた。

腕の中のシンシアの体が、深い呼吸を繰り返すのが解る。

いつか訪れる自分たちの姿を重ねているのだろうか?と、少年は不安になったが、気付かれぬように覗き込んだ顔は、彼女特有の夢見るような微笑みしか乗せていなかった。

いつも消えることのない笑顔。

植物を抱く大地のような慈愛と温もりに満ちて、俺に生きる力を与えてくれる。

孤独に耐えきれなかったり、寂しさに打ちのめされたり、心の収縮を繰り返す自分と違って、シンシアは強い。

そう思えることは誇らしさと同時に、胸を針でちくりと刺したような自己嫌悪を少年にもたらした。

どんなに自在に剣を振るえても、強大な魔力を操っても、自分には決して持てない揺るぎない強さ。

こいつには俺がいなくちゃ駄目なんだ、と胸を張って言える日が来るのは、一体いつのことなのだろう。

もっと強くなるために、今の俺に出来ることはなんなのだろう。

少年は愛する少女を腕に抱きしめながら、音を持たないある答えが響き渡るのを聞いた。

唇を噛みしめて、瞼を閉じて、予言のようなその声を静かに、だが何度も聞いた。


今の俺に出来ること。


人とは違うこの命を使って、俺がやらなければならないこと。




勇者として選ばれた、俺が選ぶ道。




誰のものでもない、俺の人生。







そして少年は目を開けた。

もう迷いはなかった。

「ヴェルンド王、アドリアン。聞いてくれ」

声の奇妙な清澄さに、シンシアがはっと顔を上げたが、勇者の少年はもうそちらを見ようとはしなかった。

「俺は言葉を選ぶのは苦手だ。だからはっきり聞かせてもらう。

精霊王は、もうすぐ今際の時を迎えると聞いた。それはいつだ。自分で解るのか」

「貴様、なにを無礼な……!」

「よい」

かっとなったアドリアンを制すると、ヴェルンドは穏やかに告げた。

「そうさな。どんなに永らえても、恐らく持ってあと幾月というところであろう。じゃが、それがどうした」

「お前たちふたりとも、俺達の村に来ないか」

シンシアは驚いて小さく叫んだが、少年の言葉を邪魔してはならぬと思い、慌てて口をつぐんだ。

勇者の少年は淡々と続けた。

「言っておくが、これは誘いじゃない。提案だ。どうしても嫌だというなら無理強いはしない。

だが老いて弱った体をこんな暗い洞窟に潜めていれば、残りわずかな命も余計に縮むというものだろう。

俺たちの村は、一度魔物たちに滅ぼされた。土は毒に侵され、川は枯れた。

だが今ようやく緑が戻り、水が湧き、もう一度赤や黄色の花が咲くようになった。

あいにく住人は、俺とシンシアのふたりしかいない。寝床ならいくらでもある。シンシアは香草茶や薬酒を作るのがずいぶん上手くなった。

爺さん、あんたの枯れ枝みたいな体に十分な栄養を与える飯も、今のこいつなら作れるはずだ。ちょっと前まではろくに食えたものじゃなかったけどな」

「えっ、それどういう……!」

抗議の声を上げたシンシアに笑いかけると、勇者の少年は言った。

「お前たちふたりが何歳なのかは知らない。けど、きっと俺なんか比べ物にならないほど長く生きているんだろう。

シンシアはエルフだ。お前たちと同じ、長い時を生きる。でもこいつは子供の頃俺の村に来て以来、エルフ固有の暮らしというものを全く経験していない。

あんたが最期を迎えるまでの間、エルフとして必要な知識や一族の伝承を、こいつに教えてやってくれないか。

お前たちだけが知る、この世界の秘密を。人には決して聞こえない精霊の言葉や歌を」

「勇者よ。そなたの気持ちが嬉しいが、どこにいようと儂はいずれ死ぬ」

ヴェルンドは穏やかに答えた。

「ならば慣れたこの洞窟で、誰にも見つからず骸と朽ちて、虫たちの食餌になるのがよい。

いかに山奥に潜むとは言え、そなたらの住まいはあまりに人郷に近い。ひとつところにエルフが集まれば、きっと人間の目に着くじゃろう。それはシンシアに再び危険が迫ることでもあるぞ」

「正しく生きて来た者は、その最期にも正しい敬意を払われるべきだ」

少年はそれには答えずに言った。

「ヴェルンド王、あなたがこのような地で身罷ることを、俺は正しいと思わない。

一番そう思っているのは俺じゃなく、あんたの股肱の臣のアドリアンだろう。

人は死に場を選べない。だが、選択肢が持てる場合にその場所をある程度決めておくのは、遺される者の不安を除くことにもなるんじゃないのか?」

ヴェルンドは黙して動かず、なにも映さない目で勇者の少年を食い入るように凝視した。

少年は目を逸らすことなく、精霊王の瞳を正面から見つめ返した。

永遠とも思える長い時間が過ぎ、ようやくしわがれた声がひとこと、粗朶のような細い喉から洩れる。

「……千年を生きたこの儂に、よもや死出の旅立ち方を意見する者がおるとはな。

さすが異端の天空の勇者、許されざるべき傲岸不遜じゃ」

「悪いな。口が悪いのは生まれつきだ」

勇者の少年は唇の片方を持ち上げ、両腕を組むと今度はアドリアンへ向き直った。

「じゃあ爺さん、あんたへの提案はこれで終わりだ。よく考えてみてくれ。

次はアドリアン、お前の番だ」
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