遺志



其の三十七・生死





裏切りの洞窟を西に仰ぐ草原に、踏みしだかれた草が左右に分かたれて出来た道が続いている。

ほんの数時間前に、勇者の少年がシンシアの後を追って来た道。

夜が明ける。

まるでその夜に帰結の幕を敷くように、しらじらと明るさを滲ませた空から、白金色の靄が降りつもる。

朝が来て、シンシアは自分の手に戻った。

だかまだ何も終わっていないことを、少年は知っていた。



そう、何ひとつ終わっていない。



むしろ始まったばかりなのだと、知っていた。






「それでは我々はここで別れよう、天空の勇者よ」

エルフのアドリアンは地に片膝を着くと、少年に向け厳粛にこうべを垂れた。

「我らにもはやすべきことは何もないが、わが一族の同胞を伴侶とする勇者に、光ある未来が訪れることを祈る。

お前たちふたりの暮らしに、緑豊かな大地の精の恵みがもたらされんことを」

「なんだ、さっきまでとずいぶん態度が違うな。俺は半人半妖の卑しい存在なんじゃなかったのか?」

皮肉めいた口調で少年が言うと、アドリアンは顔色ひとつ変えずに返した。

「ヴェルンド様がお前をお認めになられた。わたしはただ、主のご意思に従うのみだ。再び過ちは犯さぬ」

「たいしたコウモリだな。絶対君主を持つ奴は、そうやっていともたやすく己れの白黒をひっくり返す。少しは振り回される方の身にもなれ」

「もう!あなた、言い方が意地悪だよ。もっと優しく話してあげて」

シンシアがたしなめると、勇者の少年はむっつりと顔をしかめ、ぷいとそっぽを向いた。

「どうしてだ。俺は、間違ったことは言ってない」

「でも、正しければどんな言い方をしてもいいってことじゃないでしょう?

言葉は、わたしたちが神様にもらった大切な宝物なんだよ。プレゼントを贈るように心をこめて渡さなきゃって、いつも言ってるでしょ。

ほら、話してる時は相手の目をちゃんと見なきゃ!」

シンシアは腕を伸ばし、両手で少年の頬を挟んでぐいっと自分の方へ向かせた。

「ね、わかった?」

「わ……、わかったよ」

少年は真っ赤になると、仕方なさそうにアドリアンを振り返り、小声で「悪かったな」と謝った。

老精霊王ヴェルンドは、目を丸くして一部始終を眺めていたが、こらえかねたように声を上げて笑い始めた。

「ほっほ、ほ!古代のアキレウスの踵しかり、救世の英雄にも、決して頭が上がらぬ弱点というものがあったのじゃな。

シンシア、心配せずとも勇者の訓戒、アドリアンにはちゃんと伝わっておる。こやつももう二度と、こたびのような愚行に走ることはない。どうか許してやっておくれ」

「許すも許さないも、わたしは平気よ。こうして元気に歩けるし、もうどこも痛くないもの」

シンシアは慌てて言った。

「それにここでおじいちゃんに会えたから、わたし……」

まだ平らな下腹部に大事そうにそっと手をあて、くすぐったげに表情をほころばせる。

アドリアンが眉を上げた。

「ヴェルンド様、もしやこの娘……?」

「言うな」

ヴェルンドが遮った。

「娘が自分で勇者に告げるさ。若いめおとの告白の楽しみを奪うでない。

そも、おぬしがこの下らぬ策略を実行する時点でそれに気付いておれば、このような事態にならずとも済んだのではないか。

身重の娘を拉致し、まだ弱き命がもし流れでもしておれば、おぬし、どう申し開きするつもりだったのじゃ」

「は……まこと、愚にもつかぬ振る舞いを……」

「済まなかったな」

「え?」

顔を上げたアドリアンの額に、ヴェルンドの皺だらけの指が静かに触れた。

「儂のために、ずいぶん苦悩させてしまったな。

そなたが儂をなんとかして延命させようと、こたびの一件を謀ったのも知っておった。

儂に隠れてこそこそと人間の城へ忍び込み、邪悪な進化の秘法をひそかに手にしたことも。

なんたる稚気、暗愚よと呆れども、そなたが儂のために血眼になっておることを鑑みれば、どうしてもそれを止めることが出来なんだ。

そなたの気が済むのならば、思うままにさせてやりたいと思った。娘の伴侶である天空の勇者が、それを食い止めるであろうことも予測した上でな。

大陸のエルフを統べる精霊王ぞと驕慢に生きて来たが、儂とて愛する者への執着に理性を失くす、ただのちっぽけな老いぼれでしかないのじゃ」

水気のない老エルフの掌が、いとおしげにたったひとりの子弟の頭を撫でた。

「アドリアン、今生での儂の最後の息子よ。

良いな、真っ直ぐに生きよ。己れの心に恥じぬ道を進め。

正しき眼で、正しき生き様を見極めよ。その長い短いは、後からついて来るものだ」

「ヴェルンド様……!」

慟哭するアドリアンの瞳から、大粒の涙があふれ落ちた。

「嫌です。死なないでください。

どうかわたしを置いて行かないでください、ヴェルンド様!」

「莫迦なことを。生と死は表裏一体じゃ。死ぬなということは、生きるなということでもあるのだぞ。

儂はもう充分にこの生を愉しんだ。嗚呼、じつに良き生涯だったと満足して死ぬことが出来る。

そうしてくれたのはそなたなのじゃよ、アドリアン。人は独りで死ぬことは出来ても、独りで生きることは出来ぬ。


この世に生まれて、やがて死ぬ。


儂はまこと、幸せだった」
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