遺志
其の三十五・指摘
「そうじゃ、助言じゃ。
そこらの樹木より長く生きる年寄りの助言じゃ。その短い耳をエルフのように立てて、ありがたく傾聴するがよいぞ」
老いを通り越して、風雨に曝された遺跡のような佇まいさえ見せる精霊王ヴェルンドは、虹彩を失った瞳で勇者の少年を射た。
剽げた物言いがふと懐かしいと感じたのは、サントハイムの老魔法使い、ブライにどことなく雰囲気が似ていたからだろうか。
言いたいことがあるなら言え、聞いてやる、と口にしかけて、少年は言葉を改めた。
「こちらこそ頼む。なにか役に立つ教えがあるのなら、是非あんたの言を乞いたい。
俺はシンシアとふたりで隠遁生活を送っていて、あまり世界の情勢を知らないんだ」
「その割には、じつに物知り顔で我が従僕のアドリアンを出奔へとそそのかしたようじゃが」
「そ……」
少年は驚いて老エルフを見つめ返し、気まずそうに顔を赤らめた。
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。俺はそそのかしたりなんかしてない。
そいつがエルフを滅ぼさせたくない、生きたいと言ったから、だったらそうするために動けと言っただけだ」
「そう、それじゃ。勇者よ、己の言葉をこそ己に還せしめよ。
おぬしの求める答えはまさに、そこにある」
ヴェルンドが間髪入れずに返答したので、少年は虚を突かれたように瞳を白黒させた。
「な……なにがだ?」
「おぬし、悩む者に迷いを断てと偉そうに進言しておきながら、何故自身の迷いには、正面切って向き合おうとせぬ?
誰しも他人の事情には、思うさま正論を吐ける。勇気を持って生きよ、動けよと心安く背中を押せる。
じゃが己れのこととなると、途端に足の裏に根が生えたように腰が引けてしまうのは、一体どうしてであろうな?」
老いた精霊王は光を映さぬ眼を開き、彼からすればまだ小鳥ほどもわずかな時間しか生きていない、天空びとと人間の混血の少年を慈しむように見つめた。
「星の奇跡が生んだ勇者よ。まことの心の声に、耳を傾けよ。
おぬしは既に解っておるはずじゃ。動くからこそ、未来は変わるのだと。
たとえかつての旅立ちが、家族と故郷を奪われた悲哀に満ちたものだったとしても、おぬしが動くことでこの世界という遊戯盤の目は、まるで嵐の如く駒の動きを変えた。
誰も打たぬ将棋に、勝敗がつくか?盤にはやがて黴が生えて腐り、芥と化してがらくた山に埋もれてしまうであろうよ。
少年よ。お前は偉業を成し遂げ既にこの世を去った、物言わぬ英雄の彫像ではない。
生きて、ここに存在している。おぬしは死ぬまで天空の勇者であり続けるのだ。
確かに自分が特別である、と認めるのは辛いものじゃ。
歴史の導き手として苛酷な運命を双肩に担わされながら、その実、手も足も目も耳も、皆と同じようにたったのふたつずつしかない。
誰も手伝ってはくれない。皆、面白おかしく見守っているだけじゃ。
まるで愉快な芝居を、舞台袖で菓子を食べながら眺めるように、現実感をまるきり欠いた他人事の心持でな。
だがそれでも選ばれし者は、未だ誰も通らぬ道を開拓せねばならない。
おぬしの前に、道はない。なぜならおぬしは道を作る者だからだよ。
吝嗇な木々に視線を覆われ、冷たい岩に足裏を刺され、鈍重な山に何度も行く手を塞がれたとしても、
おぬしは剣を振るい、雷を呼び、やがて来る新たなる時代へと続く一本の道を、己れの手で切り拓かねばならぬのだ」