遺志



其の三十四・叱責





星々が瞬く。

黄色い月が空に姿を現すと、木立の葉群れから梟の鳴き声が響く。

裏切りの洞窟の前でひとしきり抱擁を交わすと、勇者の少年はシンシアがすがるような目で促して来るのに気がついた。

「どうした」

「あのね、あのエルフのおじいさんがここまで送ってくれたの。わたしのことを守ってくれたの。

おじいさんたちは今、とても困っていて……」

「それは、俺も聞いた」

少年はおとがいを上げて、彼女が示す方向を見た。

シンシアの後方に、まるで幾千年の昔に忘れ去られた木乃伊のように、限りなく老いさらばえた一人のエルフが立っている。

朽ち木のような手足と、水気を失って縮んでしまった枯れ枝の如き短躯。

ぼろぼろの衣に、使い古された緞帳のようによれよれと胸を覆う長い髭。

痩せこけて渇ききった容貌は、老エルフにもはやあまり時間が残されていないことを如実に物語っていたが、眉の下から覗く瞳は、物映さずとも克明な生命の証を刻んでいた。

いつのまにか、その足元にアドリアンがひれ伏してうずくまり、忠実な動作で両手をうやうやしく差し出している。

恐らくこの老人が、エルフの青年が何度も口にしたこの大陸のかつての精霊王、ヴェルンドなのだろう。

だがヴェルンドはアドリアンの手を取ろうとはせず、代わりに鋭い怒声が飛んだ。

「この、痴れ者め!誰がこのような愚行をうぬに命じたか。人間より魔物より、最も卑しく汚れておるのはうぬの心じゃ。

自分以外の存在を侮蔑しながら、行いをそっくり踏襲する己れの道化、その愚をあるじである儂の眼前にて顧みよ!」

しわがれた声音は、小さな体から想像も付かぬほど苛烈な怒りをまとい、アドリアンは打たれたようにその場に平伏した。

「申し訳ありませぬ!」

「なんと無様なことよ。うぬの体からは、邪まな古代秘法の悪臭がする。

正しきを歪め、弱きを魔の渦に飲み込み、ばりばりと心を喰らう恐ろしい秘術じゃ。

闇に膝まづいてまで生にしがみつこうとする、うぬには決して命の真の価値など解りはせぬだろうさ」

「ヴェルンド様……どうか、お許し下さいませ。わたしが愚かでございました!」

「待ってくれ」

勇者の少年は黙ってその様子を見ていたが、一方的に叱責されるアドリアンが次第に気の毒になり、素早く間に割って入った。

「もう、その辺にしてやったらどうだ。

こいつは充分に反省している。身を以って報いも受けた。これ以上の糾弾は必要ないはずだ」

「なんじゃ、おぬしは?他人の話に首を突っ込むなら、まず自らが名乗るのが先であろう」

「俺は……」

少年がためらいがちに名を告げると、老ヴェルンドは目を見開いた。

感心したように何度も頷き、怒りを和らげた瞳を細め、喉を鳴らしてほっほ、と笑い声を上げる。

「なるほど、なるほど。それが天空の勇者の与えられし聖なる御名か。

そなたの名をまだ知らなんだが、まこと詩歌のように美しい名前じゃな。一体どのような数奇な運命の持ち主が、そのような名をおぬしに授けたのじゃ?

それにその翡翠の瞳、綺羅星の如きまばゆさを宿しておる。空より流れ落ちて、大地を燃え続ける地上の星じゃ。

鏡のように曇りなき心を持つ、きっと良き父親となるであろう。そなたがこの少年を愛するのもよく解るぞ、シンシア」

「うん、そうでしょ」

シンシアが嬉しそうに頬を染めてはにかむのを、勇者の少年は不思議そうに見た。

「よかろう。当事者のそなたがそう言うのであれば、これ以上アドリアンを咎めることはすまい。

そなたのおかげでこやつも妄執から解き放たれ、進むべき道が定まったようであるしな。感謝するぞ、勇者よ。

じゃが肝心のそなた自身が、己の運命の行き先をまだ理解しておらぬようじゃ。

地上の星はこのまま炎を消して静かなる隕石と化すか、それとも今ひとたび時空を舞う灼熱の彗星となるか、自分でも決めかねておる。

ならばまもなくこの星を去る儂から、生の先駆者としてそなたに助言を与えてやろう、少年」

「助言?」

少年は眉をひそめると、うろんげな瞳で老ヴェルンドをじっと見つめた。
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