あの日出会ったあの勇者
風呂から上がって新しい服に着替え、浴場を出ると、雨はだいぶ小降りへ変わっていた。
緑の目をした若者は、どうやら風呂に入っている間、宿の主人に靴とマントの乾燥を頼んでおいたらしい。
上がり框(かまち)に整然と並べられたふたりの靴はいつのまにか泥が落とされ、すっかり乾いていた。もちろん、その分の代金を多めに支払ったのだろうが、ずぶぬれだった革のマントもまるで買って来たばかりのようにさらさらで、きちんと畳んで置かれていた。
若者は辺りを見回して誰もいないことを確かめると、おもむろに腰の剣帯に吊るした鞘を外し、路地裏のカラタチの茂みの下にしゃがみ込んで、鞘の切っ先で地面を掘り始めた。
手を止めることなく鞘を動かしていると、みるみるうちに茶色の土がかき分けられて横長の穴が開く。若者はそこへ、手にしていた剣を鞘ごとためらいなく放り込み、上から土をかけて綺麗に埋めてしまった。
聞くと、王城では衛兵と騎士以外のすべての伺候者が帯刀することを禁じている。だからここに剣を隠して行くのだ、という。
宿の主人に預けておけばいいじゃないかと言ったが、「武器を預けると、訳ありかと足元を見られて高い金を取られるからな。
すぐ戻って来るし、香草の粉末をかけておいたから動物が掘り返すこともない」と言って、しゃがみ込むと革靴になにかを塗り始めた。
「今度はなにしてるんだ?」
「さっきディートから買った、練り獣脂を靴に塗っておく。こうしておけば雨や泥をはじくから汚れない。
お前も足を出せ、ライアン」
おずおずと靴を履いた足を差し出すと、緑の目をした若者は機敏な動作でライの靴のすみずみまで獣脂を塗り込み、靴ひもをきつく結び直した。
「ほどけないように強めに縛っておくぞ。王城って場所は面倒だ。やることなすこと監視されて、おかしな真似をしようものならたちどころに難癖がつけられる。
槍を構えて直立する警備兵の前で、足をもつれさせて無様に転ぶわけにはいかない。城に入ったらむやみに足を止めるな。きょろきょろしないでまっすぐ歩くんだ」
「ま、まさか転んだだけで、無礼者だって牢屋に入れられちゃうわけじゃないよな」
「そういう国もないとは言えないけどな」
緑の目をした若者は肩をすくめた。
「幸い、このブランカ王国は大丈夫だ。世の中にはいろんな国がある。その国ごとに風習は違う」
相変わらずの外見にそぐわぬ強い力で、ぎゅっと締めあげられた靴ひもがライの足の甲を圧迫する。
用意周到できびきびと素早い若者の一挙手一動足は、いかにも旅慣れている。
慣れているということは、経験しているということだ。経験しているということは、身体そのもので知識を得ているということだ。
それってなんだかかっこいい。自分の知らないことを知っている人って、すごくかっこいい。経験を積んだ人間は、それだけで偉く見える。とても……大きく見える。
「あんたって、やっぱりすごいな」
緑の目をした若者は、呆れたように美しい顔をしかめた。
「お前、さっきからすげえすげえって、そんなに他人を褒めて楽しいか」
「な、なんだよ、その言い方!すごいと思ったものをすごいと言ってなにが悪いんだ。
あんただって、もしも自分よりすごいと思う人間がいたら褒めたくなるだろ」
「いーや、ならないね」
緑の目をした若者は、なぜかむきになったように強く首を振った。
「俺は他人を褒めたくなんかない。自分よりすげえ奴がいるなんて頭に来る。
俺が相手を褒めたくなるのは、そいつに負けた時か、そいつに勝った時だけだ。勝っても負けてもいない時に誰のことも褒めたくはない。
俺は誰にも負けたくない。目標は褒めるためじゃない、超えるためにあるんだ。今はまだ無理だとしても、いつか絶対にあのおっさんを越えてやる。
だからそのために、毎日死に物狂いで自分を鍛えてる」
「おっさん?おっさんって誰だよ」
緑の目をした若者ははっとしたようにライを見つめ、「……なんでもない。ただの言い間違えだ。お前の名前のせいだぞ」と目を逸らした。
「それより、たかが俺程度をすげえと思うんなら、お前も自分でそうなれるように努力しろ。
感心してるだけじゃなんにもならねえぞ。こうなりたい、自分もその能力を身につけたいと、意識を高くして生きるんだ。
目や耳は記憶力を持っている。見聞きした映像を記憶に焼きつけろ。それが知識に変わる。
お前はひとりで生きて行くんだろ。すごいと思うものを、ただ思うだけで終わらせたって意味はない」
「で、でも、そんなこと言ったって俺には無理だよ。まだ子供だし、旅だって一度もしたことないし」
「子供扱いされるとむきになって腹を立てるくせに、都合のいい時だけは子供になりたがるんだな。
さっきも言ったが、俺は17歳までこの世界のことをなにひとつ知らずに生きて来た。旅に必要な知恵は全部、仲間のそれを見て自分で身につけたんだ。
毎日、目にするものすべてを吸収するのに必死だった。興味のないふりをして懸命に観察した。見たものの意味を、寝る間も惜しんで夢中で考えた。誰にもそれを聞く事が出来なかったから」
「どうしてさ。仲間がいたなら遠慮しないで聞けばよかったじゃないか。
俺はなにも知らない。なにもわからないから、みんな教えてくれって」
すると緑の目をした若者は、きまりわるげに頬を赤らめた。
「そんなこと聞けるかよ。……カッコ悪りぃだろ。
それより、着いたぜ」
「え?」
「王城だ。行くぞ」
ライは目を見開いて頭上を見上げた。
四方を石壁に囲まれた、黄土色の宮殿。幾度も見なれた未踏の地、ブランカ王城だ。