遺志
其の三十三・抱擁
「シンシア!」
どんなに意地を張ってみても、結局彼女の前で強がりの虚像はもろくも崩れ去ってしまう。
目の前に現れた少女の瞳の端に、赤い宝珠の涙を見つけて、勇者の少年は思わず我を失った。
張り巡らせた自制の糸が、ぷつんと途切れる。
その瞬間激情も困惑も、彼を巣食っていた全ての思いが吹き飛んだ。
少年は疾風のような速さで走るとシンシアの腕を掴み、華奢な身体を勢いよく胸に引き寄せた。
痛みでシンシアが小さく呻くのにも気づかず、まるで自分の腕が翼で、その中に大事なものを隠そうとする鳥のようにきつく抱きしめる。
髪に散らばる夜露の香りと、肌をたゆたう甘い花々の香り。
途端に心の緊縛が解け、足元から頭の先まで突き抜けるような深い充足感が、勇者の少年の全身を満たした。
(……そうだ。好きとか、大切とかじゃない。生きていけない)
(こいつがいないと、俺は生きていけない)
(俺はいつも、こいつを守りたいと言いながら、自分自身を必死で守ろうとしていたんだ)
(もう二度と、独りになりたくないから)
(だとしたら俺がシンシアを守るため、本当にやらなければならないことは……)
抱きしめると、心が溶けて行く。
恋心やいとおしさを超越した、不思議な回帰感。
体の境界線を失くす一体感は、眠りに落ちる寸前のまどろみとか、とても渇いている時のひとくちの清冽な水とか、五感に直接訴える喜びに似ている。
彼女と共にいると、紐がほどけて形の失われた自分という編み玉が、するすると球体に戻っていくような気がするのだ。
失くすとまた、自分も喪われてしまう。
勇者の少年はシンシアの長い髪に手を差し入れ、小さな頭を胸にぎゅっと押しつけた。
目を閉じて彼女の温もりを確認すると、呪文を呟く。
寄り添うふたりを光の破線が包む。
べホマの魔法がシンシアを淡い輝きで縁どり、細かな傷と疲労を癒していく。
「平気か」
少女の耳元で少年は囁いた。
「うん」
「どこも痛くないか」
「うん」
「悪かった。俺の帰りが遅くなったせいで」
「ううん、それはわたしが……」
「違う。俺はお前を籠の中の鳥のように、あの村にずっと閉じ込めていればなにひとつ問題はないと思っていた。
お前を俺以外のなにもかもから、上手に隠していればいいと思っていた。
大切なものは宝箱の奥底に、誰にも見えないようにしまっておけばいいと思っていた。
でも本当は、きっとそうじゃない。
お前は生きている。掌に乗せても動かない、木彫りの人形とは違うんだ」
少年は戸惑ってこちらを見つめるシンシアに、透明な微笑みを返した。
「お帰り、シンシア」
薄い唇が開き、白い歯が天上の三日月を描く。
それは世界中でたったひとり、彼女にしか見せることのない、勇者の少年の水晶のように無垢な笑顔だった。