遺志
其の三十二・再会
(このままでいいのか?勇者よ。
お前の生は、このまま終わるのか)
「……俺は」
問いかけに急かされるように、勇者の少年は答えようとした。
だが、曖昧な言葉は空気に触れた端から溶ける雪の結晶のように、形を持とうとせぬまま消えた。
(俺は)
「俺は………」
こすれ合う歯と歯が、ぎりり、と不協和音を立てる。
唇が、喉が、蒸発するように潤いを失っていく。
一見何気ないエルフの男の問いかけは、だが戦慄にも似た激しい慟哭を少年にもたらした。
俺は、このままでいいのか。
これまで一度たりとも考えたことがなかったと、果たして言えるだろうか。
俺は、これから死ぬまでこのまま生きて行くのか。
だってシンシアを守っていかなければならない。
勇者は世界を救い、その後も愛する少女とずっと幸せに暮らしました。
めでたしめでたし、小さな頃散々読んだ心温まる童話の終わり。
終わり?
この世界での俺の役目は、本当にもう終わったのだろうか。
たった一度の生の最も華々しい栄光は、波乱の冒険と共に終幕し、後は折り紙ののりしろのように美しい部分にくっついて、かつての輝きを懐かしみながら生きて行くだけ?
恐らく死を迎えるその時まで続くであろう、平和で穏やかな今の暮らし。
本当にそれに満足しているのか。
大切な存在のぬくもりを確かめながら目覚め、三度の食事を共に摂る。
自らの手で生計を支え、多くを持たぬ慎ましやかな暮らしに身を置いて、喪われた魂を悼み墓標を守って静かに生きて行く。
静かに、ただ静かに。
少年は自分の掌を見つめた。
このところククリナイフで木を削ってばかりで、およそ久方ぶりに剣を握った手。
草原で牙をむきだした無数の狼に囲まれ、戦いの緊張に背筋がぞくぞくするほど高揚しなかっただろうか。
自分自身と剣を交える痛快さに、身体じゅうの血という血がざわめかなっただろうか。
ひと振りの刃が真っ二つに裂いた大気の峻烈な鋭さを、あんなにも心地良く感じたことがあっただろうか。
身の内に渦巻いて、長い間行き場のなかった魔力が召喚する、一陣の稲妻の目もくらむようなきらめき。
大地を蹴って駆ける両足の、熱い血潮の躍動。
獣の荒々しい息の匂い、草原をくすぶる焦げくさい煙の匂い。
果てない旅と冒険、そして戦いの匂い。
本当は気付いている。
ひとたび飛ぶことを覚えた翼は、決してその恍惚を忘れない。
それは生涯消えることのない、この身に背負った宿命の匂いなのだから。
爆発しそうななにかがせり上がって来て、勇者の少年が言葉を発しようとした瞬間、洞窟の入口がきらりと光った。
「ただいま。
やっと、やっと会えた……!
来てくれたんだね。ありがとう!」
視界に飛び込んだ愛しい姿を認めた途端、心からの喜びと同時に、今まさに弾けそうになっていた少年の中のなにかが音もなく霧散した。
そこには眩しいほどの喜びを瞳に湛えた、彼の最も大切なシンシアが立っていた。