遺志
其の三十一・波及
「エルフが流すルビーの涙には、進化の秘法を打ち消す力があるのだ」
エルフの青年アドリアンは、憎むべき人間の知らぬ情報を語ることが嬉しくてたまらぬように、昂然と語り始めた。
「遥かなる昔、砂漠を越えエンドールへ連行された奴隷のエルフの中には、ごく稀に、ひどい傷を負いながらもこの地に生還する者がいた。
実験を施されたが、自らの流した涙によって進化が無効化し、増幅した生命力だけが残されたのだ。
解るか?進化の秘法を制御出来る力を持つのは、人間でも魔族でもない。
無力な生ける金づるよと罵られ、むごたらしく虐殺されて来た我らエルフだ。
それが大地の番人としてこの星に遣わされた我らの、偉大なる使命だったのだ。
だが人間は無効化の方法を見つけられなかった代わりに、応用するすべを発見した。
奴らはあるじ亡きデスパレスに調査団を派遣し、数多くの魔物の死骸を収集した。
進化の秘法を用いた被験者が変体する形状があまりに魔物的であるので、秘術と魔物の体の組成に、何らかの関連がないかとの研究を始めたのだ。
そしてついにエンドール研究所は、魔物の死骸から採取した体液に進化の秘法を注入して生み出される秘薬、「魔素」を開発した。
これが今、全世界中に波及している新たな進化の秘法の名を持つ超覚醒剤だ。
人間に投与すれば、感情を失わないまま力のみを増強する。もちろん濃度を上げれば、強大な誘引力で負の心に作用させることも出来る。
無慈悲で残虐な人間兵器を作り上げることが、国家の匙加減一つで可能になったというわけだ。
その魔素が、つい先頃エンドールからブランカに持ち込まれた。
わたしはモシャスを使って、それを盗んだ。ヴェルンド様とその妻となる者に用いて、生命力を強化するつもりだったからだ」
「そんなことはさせない」
勇者の少年は静かに言った。
「さっきも言った。俺からあいつを引き離す奴は決して許さない。
お前が何を企もうと、俺は何度でもそれを食い止める。向かって来るなら今度こそ倒す」
「安心しろ。もうその気は失せた。我れは誇り高き精霊族だ。
お前の言うとおり、卑しい人間と同じ謀を企てるのは、きゃつらと同等までこの身を貶めることでもある。
ヴェルンド様も決して是哉とは頷かぬであろう。この地のエルフが滅ぶという焦燥のあまり、冷静さを逸したことは認める。
今わたしがお前に言いたいのは、そんなことではない」
アドリアンは挑むような目で少年を見据えた。
「天空の勇者よ。こうしてお前に出会ったことは、神の計らいとしてなにがしかの意味があるのであろう。
わたしが盗んだ進化の秘法。エンドールからブランカに極秘に持ち込まれた、人間の生み出した魔素。
そんなものはこの世界に再び緩やかに広がる邪悪の潮流の、ごくわずかな端緒に過ぎぬ。言ったはずだ、枝葉を断っても根は決して死なぬとな。
お前が命を賭して救ったこの世界が、今まさに再び巨悪の渦に飲み込まれようとしている。
しかも今度は、白蟻の如き愚かな人間自身の手によって。
わたしには関係がない。忌まわしき人間など、もはやどうなろうと知ったことではない。
わたしはいずれ、この大陸を離れる。ヴェルンド様の旅立ちを見届けて、仲間を求め、この星に残された生の絹糸を静かに紡いでいく。
……だが、小僧」
言いかけて止め、アドリアンは先ほど聞いたばかりの少年の名前を口にした。
「お前の半身は、人間だ。
そして半身は翼持つ天空びとの血をたたえ、おまけに愛する女は大地のエルフの娘ときている。
お前の存在は、ややこしいのだ。言葉ではとても説明がつかない。
進化の秘法より、魔素よりもっと得体が知れぬ異形。異端……いや、奇跡といってもさしつかえなかろう。
そのお前が、この事態を黙って見過ごすのか。
まだ二十にもならぬ若さで既に剣を捨て、山奥に潜んでは木を彫って暮らし、残りの命が尽きるまでせいぜい髀肉の嘆をかこつか。
わたしに新たな道を呈してくれた返礼だ。わたしも一人の男として、この場でお前に問いかけよう。
このままでいいのか?勇者よ。
お前の生は、このまま終わるのか」