遺志
其の二十九・衝撃
「ところで、お前はあれほどあの娘を案じていたのに、こう安穏としていて平気なのか」
エルフのアドリアンに問われ、傍らに腰かけていた勇者の少年は肩をすくめた。
「別に安穏となんてしてない。ここであいつが戻って来るのを待つ。
それともお前、まだなにか善からぬことを企んでるのか」
「い、いや……」
「あいつは無事だ。だったらもう、慌てることはない」
「だが、あの娘はまだ洞窟の中にいるのだぞ。
吸血コウモリや、凶暴な毒蛇も潜んでいる。それに……済まなかったが、わたしはあの娘を連れ去るため痺れ薬を使った」
「その報いなら、さっきお前が十分に受けた。繰りごとはもういい」
少年はそっけなく言った。
「心配しなくても薬の効き目なら、とっくに切れてるみたいだ。あいつの気配は今こっちに向かっている」
「迎えに行かずともよいのか」
「だから、こうして来てるだろ。無事だと解ってるなら、むやみに騒ぎ立てる必要はない。
あいつには二本の足がある。獣除けのトヘロスも掛けたし、出て来たければ自分で歩くさ。
俺たちは別々の体を持っていて、どんなに大事だからって、なにもかも代わってやれるわけじゃない。
俺はいついかなる時も姫御前の尻を追いかけ回す、恋に狂った阿呆神官とは違うんだ」
だがそう言ったものの、さすがに少し気になり、少年は振り返って洞窟の入口に視線をやった。
「この気配……あいつ、ひとりじゃないな。かび臭い守護の気が一緒にいる。なんだ、これは」
「無礼な。かび臭いとはなんだ!」
アドリアンは憤慨した。
「我らが精霊王、ヴェルンド様が娘をお導き下さっているのだ。
そも、あの娘を娶って戴きたく、ヴェルンド様にもう一度この大陸のエルフの繁栄の礎石となって戴きたく、全ては謀ったことであったのに……」
エルフの男は、端正なおもてに深い悔恨の表情を浮かべた。
「王はご老齢。本来なれば、もはや歩むとてままならぬほどご衰弱なさっている。
我れの浅慮な暴挙が、返ってヴェルンド様にご労苦をお負わせする結果となったこと、悔やんでも悔やみきれぬ」
だから他人に迷惑をかけると結局こうなるんだ、と言いかけて、勇者の少年は口をつぐんだ。
旅の間、我儘勝手で散々仲間に迷惑を掛け続けて来た、自分に言えた筋合いではない。
「ヴェルンド様。我が偉大なる大陸の精霊の長。なぜ進化の秘法を使って、玉命をお延ばしになることを良しとなさらぬのだろうか。
我れが手にした進化の秘法をヴェルンド様が用いれば、かつての妖精王のお力は完全なる復活を遂げるであろうに。
………それに」
その時、呟くようにアドリアンの口から洩れた言葉に、少年はさっと表情をこわばらせた。
「どのみち、人間どもの腐敗は止められぬ。進化の秘法は、いずれこの世界全土に再び疫病のように蔓延する。
エンドールでの生体実験がようやく完全な成功に終わり、研究結果がブランカの城に極秘に持ち込まれた。
新たに生みだされた進化の秘法は究極兵器として、幾千年もの長きに渡って戦とは無縁だったこの国を、またたくまに席巻することだろう。
騎兵、衛兵、一般市民にも被験はおよび、ブランカはやがて恐るべき軍事国家として変貌を遂げるのだ」