遺志
其の二十六・提案
胸の中心から飛び出した心臓がどくどくと、喉から耳へ跳ね回る。
突然翼が生えたみたいだ。銀色の二枚貝が抱えた輝く真珠のようにぽろりと口からこぼれて、手の届かない遠くまで飛んで行きそう。
(子供が宿っておるよ)
(そなたと、あの若者の)
なんだろう?このふわふわした気持ちは。
自分が急に特別な存在になったような、そんな気持ち。
ただここにいることに途方もない価値を与えられたような、そんな気持ち。
戸惑う感情はまだ足並みを揃えてくれず、嬉しいとか驚いたとか、喜怒哀楽よりもまず浮かんだのは、この思いだった。
あの子はこれを聞いたら、どんな顔をするかしら?
「なあ、俺は難しいことはよくわからないが」
自分が原因で負わせた傷をすっかり癒してしまうと、勇者の少年はエルフの青年の横に座って手を伸ばし、起き上がるのを手伝ってやった。
こんなふうに彼が他人の傍に腰かけ、あまつさえ自ら話しかけるなど、かつての導かれし仲間たちが見たらその変貌ぶりに仰天しただろうが、エルフの男はそんなことを知る由もない。
「さっきから聞いてりゃ、お前はどうしてエルフが滅ぶって決めつけるんだ?
確かにこの大陸のエルフはいなくなったかもしれないが、海を渡った向こう岸には、まだ生きてる仲間たちがいるんだろ。
ここを離れて、そいつらと一緒に暮らせばいいじゃないか」
「貴様は馬鹿なのか?だから、半人半妖の亜種は無知なのだ」
エルフの青年は、ついさ先ほどまで熾烈な戦いを繰り広げた少年が、なにごともなかったように話しかけて来ることに戸惑いながら、不承不承答えた。
「エルフは豊穣の秘蹟。この星の繁栄を司る。星の番人、大地の守り人とも呼ばれている。
生まれた大地と共に暮らし、その骸は生まれた大地に還す。そうでなくては生きられぬ」
「ふん。誰が決めたんだ、それ」
エルフの青年は絶句した。
「だ、誰がだと……」
「棲みかを変えれば必ず死ぬなんて聞いたことがないぞ。じゃあ渡り鳥はどうなる。魚は。水牛は」
勇者の少年は平然と言った。
「精霊は大地の番人の役目を負うから、首根っこに縄をつけられていついかなる時も余所へ出かけちゃ駄目ってことか?
俺が旅をしていた頃、世界中から夢を抱いた人々が集まって来る、移民の村という場所を見た。
そこに集う人々の誰もが、希望と同じくらいの不安と、なんとしても生き抜くぞという気概を抱えていた。
今はコナンベリー、エンドールを中心に、船や気球の移動技術が目覚ましい発展を遂げている。
なにも、イカダひとつで大海原に乗り出せってわけじゃない。お前ひとりだって十分に大陸越えは出来るだろ。
お前はシンシアと同じで、モシャスが使えるエルフだ。蛙に変身しろ、蛙に。
そして交易船の酒樽にでも、もぐりこめばいい」
「な……ふ、ふざけたことを言うな!
我らエルフの掟は、偉大なるこの世界の創世神が決め給うたもの。聖なる約定を破ってまで生きながらえようとは思わぬ!」
「なら、四の五の言わずにおとなしく死ね」
勇者の少年は美しい顔を挑戦的にしかめて、エルフの男を睨んだ。
「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。支離滅裂な自分勝手に、何の関係もないシンシアを巻き込みやがって。
じゃあお前はいったい、どうしたいんだ?」