あの日出会ったあの勇者
温かい湯船に身体を沈め、並んで浸かった。
ああ、めちゃくちゃ気持ちいいやという喜びと、なにやってるんだ俺、さっき会ったばかりの氏素性も知らない人間と風呂に入るなんて、という戸惑いが交錯し、ライの頭を混乱させたが、結局はこの胸を疼かせるわくわくが心を引っ張る方向へとりあえずは進んでみようという結論に落ち着いた。
緑の目をした美貌の若者は、子供のように肩までしっかり湯に浸かると、顎から先だけ出して黙って白い湯気の向こうを見つめている。
さっきまでは快活な様子を見せていたのに、突然ぴたりと黙り込んで自分の世界に入り込む。
傍らのライにじっと見られているのも、気付いていないようだ。いや、勘の鋭い剣士だからとっくに気付いているのかもしれない。とくに注意を払うまでもないと、敢えて無視しているのだ。
まるで刃物みたいな横顔だ、とライは思った。
すごく綺麗だけど、うかつに近づいてなれなれしく触れるとすぱっと切られる。
本人は意識していないのかもしれないが、ふとした笑顔や言葉のはざまに、なにか大きなものを有無を言わさず抱えさせられているような、奇妙な翳りが漂うのはなぜだろう。
旅をしていたと言っていたが、普通役者や詩人でもない人間が、こんなに若いのに旅をするだろうか。それにあの回復魔法。名前だってすごく変わっているし、大体男のくせにこんなに美しすぎるのもおかしい。
「なあ」
ライが呼びかけると、若者は物憂げな視線を返して来た。
「なんだ」
「あんた……」
何者なんだと聞いたところで、きっとさっきと同じように、俺はただの木彫り売りだ、としか言わないだろう。
だから止めた。
「今、なに考えてたんだ」
「里でひとりで留守番してる連れのことが、気になってた」
「よろず屋のおやじが言ってた、お腹に赤ちゃんがいるっていうお嫁さんのことか?」
「オヨメサンじゃねーよ」
緑の目の若者は顔を赤らめた。
「それに、赤ん坊も出来てない」
「じゃあ、一緒に暮らしてる女の人がいるのに結婚していないのか」
「結婚がなんなのか、よくわからないからな。ふたりでいることにわかりもしない名前をあてはめる必要はないだろ」
「ばっかだなー、あんた」
ライが鼻で笑うと、若者はむっとした。
「なんでだよ」
「世の中をなんでも知ってるような顔をして、そんな簡単なことも知らねえんだもの。結婚って、特別なんだぜ。
別々の親から生まれた他人が、神様に認められて正式な家族になるんだ。結婚すれば、もしもどちらかが病気になってもそばにいてあげられるし、子供が産まれたら父さんと母さんになれる。
父さんと母さんは、神様に許しをもらえた家族なんだって、子供に胸を張ることが出来る。すごく清らかで神聖な誓いなんだ。
だから女の人はいつだって、大好きな人からの結婚の申し込みを待ってるんだぜ」
「そうなのか?」
緑の目をした若者はまじまじとライを見つめた。
「ちびのくせに、どうしてそんなことを知ってる」
「昔、母さんがよく言ってたもん。俺の父さんはもう死んじゃっていないけど、プロポーズされたあの日のことは、今も昨日のことのように思い出せるって。
あの日の父さんがくれた、身体の中で花火が弾けるような幸せな思い出が、あの人のいない今もわたしを支えてくれているのよ、って。
だから、……だから、好きならそれをちゃんと形にした方がいいんだ。たぶん」
(ねえライアン、聞いて)
(あなたのお父さんが生きていた頃、よちよち歩きのエレックと生まれたばかりのライを連れて、お父さんったら散歩に出かけたの。
三人で行くから、君はついて来なくていいって言われたんだけど、わたし、気になって仕方がなくて、こっそり後をつけて行ったのよ!
危なっかしくて、見ていられなかったわ。エレックは手を振りほどいてすぐどこかに行こうとするし、ライはお父さんの抱き方が気に入らなくて泣いてばかりで、わたし、木陰から見つめながら、もうはらはらして……)
鈴が転がるように笑って、亡き父の思い出を楽しそうに語ってくれることは、母が忙しくなってから絶えてなくなった。
追憶のアルバムを安らかにひも解くことも出来なくなったのは、ただ、気持ちに余裕がないからだ。時間がないからだ。忘れたわけじゃない、きっと。
父さんと結婚したことは今も母さんの支えで、残されたエレック兄ちゃんも母さんの支えで、でも……、でも俺は、俺は………。
「お前がそう言うなら、考えてみる」
ライははっと我れに返った。
「な、なにを?」
「ケッコンだ」
緑の目の若者は照れ隠しか、ライの方を見ずにぼそっと言った。
「俺はそんなものに意味があるなんて思ったことがなかった。
でも、それがあいつのためになるなら別だ。俺はいつか、あいつを残して先にいなくなる。お前の言うことが本当なら、ケッコンの誓いは残された者を支えることが出来るんだろ。
俺はいなくなってもあいつを支えたい。ただ、それは思い出にすがらせるためじゃないけどな」
「え?」
「あの頃はよかった、なんて思うのは俺は嫌いだ」
若者は揺るぎない口調で言った。
「俺にとって大切なのは、今この時だ。懐かしく語る過去の思い出じゃない。この瞬間になくなるかもしれない「今」だ。
俺はあいつに、いつも今が一番素晴らしいと思ってほしい。俺がいつかあいつの前からいなくなっても、今を生きている自分を素晴らしいと思ってほしい。
世の中のたいていの人間は、突然の別れや死や戦いの悲劇は、自分以外の奴らにだけ訪れると思ってる。
でも、本当はそうじゃない。「今」はいつでも前触れなく消えてなくなる、もろくてあやうい砂の城だ。ややこしくて手に負えない、神の悪戯の蜃気楼だ。
俺はそれを守りたい。あいつの、俺よりずっと長くさだめられている残された生のすべてを、絶対に幸せなものにする。
俺はそのために生きている」
緑の目をした若者はまるで誓いを立てるように言うと、もうそれ以上言うことはないというように口を閉ざした。
「………あ」
ライはどもった。
「あ、あんた……、黙ってたかと思ったら今度は突然難しいことをぺらぺら喋りだして、ほんとにおかしな人だな。
「今」を守るなんて、大げさだ。自分はこの世界を救う、選ばれた救世主だとでも勘違いしてるんじゃないのか?それに、先にいなくなるのならないのって、まるで恋人と寿命の長さにすごく差があるような言い方をしてさ。
あんたみたいな変な奴、他にはいないよ。あんたの「あいつ」は、まったく面倒な人を好きになっちゃったみたいだな」
若者はなにも言わずに小さくほほえみ、目を閉じた。
それ以上冷やかしの文句を続けることが出来なくて、ライは頭までざばっと湯にもぐった。
湯は浴場の壁穴からこんこんとあふれ落ち、熱かった。心臓が胸の奥で高鳴っている。湯の中では自分の身体がいつもより白く、頼りなく見えるのはどうしてだろう。
長く浸かったから体の芯まですっかり温まって、もう上がりたい。でも、このままこうして正体不明のこの若者と一緒に、時が止まったような静寂を気の済むまで分かち合ってもいたい。
なんて不思議な言葉だろう。「今」は前触れなく消えてなくなる、もろくてあやうい砂の城?
俺の前に広がる世界はいつだって、この瞬間になくなるかもしれない蜃気楼。
そんな不吉で、哀しくて、だからこそ素晴らしく美しい言葉、学校の先生は誰も教えてくれなかった。
湯の中で透けて見える緑の目の若者の腕や足には、よく見ると無数の傷痕があった。胸、脇腹にいくすじも走る破線。
憎しみの爪や牙、剣戟に肌を裂かれた経験を物語る、生と死の価値を知る真の剣士の称号。逃れようのない凄惨な戦いの残滓。
この若者は、どんな生を送って来たのか。
誰も知ることの出来ない「今」を、彼はきっと、本当に命懸けで守って生きて来たのだ。