遺志
其の二十二・訓戒
(おい。
………おい)
名前が繰り返し呼ばれる。
(おい、聞こえてるのか?)
白く霞んだ記憶の水底で、呆れたような声が響く。
瞼の裏に浮かぶのは、悲しいほど懐かしい、幸せだったあの頃の光景。
(わたしの話をちゃんと聞いてるのか?今からこうして下段突きの素振りをやってもらうぞ。
困ったものだ。お前はこのところ、稽古中もシンシアに見とれてばかりだな)
(ちっ、違うよ)
木剣を手にした白皙もまだ幼い少年は、はっと振り返ると頬を赤らめた。
(あいつ、いつもぼんやり花畑に座り込んでるから、蜂にでも刺されたりしねえかと思って見てただけだ)
(いくらシンシアがのんびり屋だからって、蜂くらい気づくさ。
それよりお前は自分の心配をしろ。これから素振りを千回だ。さあ、始めるぞ)
(千回?!)
少年はぎょっとした。
(そんなの、無理に決まってるだろ!)
(誰が無理だと決めたのだ?剣術の教本に書いてあったか。それとも戦いの神が、お前の夢枕に立って告げたか。
無理だと決めつけるのは、いつも己れ自身さ。お前が諦めた瞬間、それは永遠に実現不可能となる。
どうだ、諦めるか)
(誰が諦めるって言ったんだよ)
少年は唇を噛むと、反抗的に言い返した。
(絶対、やってやる!)
(ははは、その意気だ)
まだ背丈が剣よりも小さかった頃から、毎日稽古をつけてくれた師範代。
負けず嫌いでむきになりやすい自分の性格を熟知し、時に押したり時に引いたり、飽きないようにたえず工夫を凝らして、一流の剣技を伝授してくれた。
(いいか、よく聞け。しっかり覚えておくんだ。
真に強き者とは、実戦において身の内の一分の力しか使うことがない。
筋力ではなく、身体のばねを使って瞬発力で動け。自分自身を戦う翼だと知れ)
日々を重ねる度に過去は時の波に飲み込まれ、どんなに忘れたくなくとも、思い出は必ず引き潮のように遠のいていく。
けれど、恐怖と混乱の中で愛した師から最後にかけられた言葉は、今なお熱を湛えたまま、しっかりと耳にとどまっている。
(いいか、生きろ。
強く生きろ。
どんな時も決して自分に負けるな。お前なら必ずそれが出来る。
お前はわたしが注いだ水を余さず吸い込み、さらなる滋養と昇華してくれる、素晴らしい大樹の苗だった。
お前に剣を教えることが出来て、嬉しかった)
「どんな時も自分に負けるな……、か。
まさか、こうして俺が自分自身と戦う日が来るなんて、予測してたわけじゃないよな。師範」
勇者の少年は小さくひとりごちると、素早く盾を掲げ、頭上に振り下ろされた剣を真正面から受け止めた。
「遅い!」
もう一人の少年が叫んで、着地するや否や盾を蹴り上げる。
空に浮いた盾の間から体を滑り込ませ、驚いて動けない勇者の少年の懐に拳を突きあてると、鋭く呪文を叫んだ。
「ラ イ デ イ ン!」
「うわあああ!」
全身を凄まじい雷電が刺し貫く。
勇者の少年は声にならない叫びを上げ、身を折ってその場に崩れ落ちた。
手から離れた天空の盾が、地に転がる。
もう一人の少年が、冷酷な笑みを浮かべてこちらを見下ろし、爪先でがしゃんと盾を蹴り飛ばした。
「どうだ?得意の呪文を自分の腹にお見舞いされる気分は。
お前にやられた魔物たちは、皆こうして苦しみながら死んでいったんだぜ」
「……う……」
(ちくしょ……)
咳き込んだ口から、大量の血が溢れる。
(肺と、あばらがやられた。まずい)
(一の攻撃から二の攻撃へ移る速さが、半端じゃない。
なかなかやるな、こいつ……って、俺か。
笑えねえや。パノンなら怒り出しそうなくらい趣味の悪い冗談だ)
「おっと、回復魔法は止めてくれよ」
エルフがモシャスで変化した勇者の少年は、同じ姿でうずくまる少年の手の甲を容赦なく踏みつけた。
「卓越した剣技に魔法力まで兼ね備える、お前は本当に優れた戦い手だ。
だがたったひとつ弱点があるとすれば、防御だ。
お前は守備に転じなければならない体勢の時も、どうすれば反撃出来るかばかり考え、その結果、隙が生じている。
何故だかわかるか?お前がずっと、いつ死んでもいいと思ってたからさ。
生きることになんの意味も見いだせず、戦いに臨むたびに、いっそ俺も死んでしまえたら……、
ひそかにそう願い、己れの身を守ることをおろそかにし続けて来たからさ」