遺志
其の十八・運命
(わたしは決して、あの子より先に死なない)
口にすると形を持った感情が激し、瞼から熱い涙がこぼれ落ちる。
しずくが頬を滑ると、みるみる硬化してルビーに変わった涙の粒を、枯れ枝のようにしなびた指が掬い取った。
「泣くな。シンシア」
「……どうして、わたしの名前」
「儂は千年もの時間を生きて来た。何でも知っておると言ったであろう?」
ヴェルンドは盲いた目を閉じて微笑んだ。
「シンシアという名には、月という意味があるのじゃよ。
この星より生まれ、この星に恋をして生涯その傍らを巡る、小さくてか弱き白銀の衛星。
そなたが人間の村に匿われ、あの少年と共に育ったことも知っておった。
新しき未来を築こうとするそなたたちふたりを、黙して見つめようと思っていた。
じゃがエルフ復興の希望を捨てきれぬアドリアンは、外界に出かける少年に気づき、そなたの存在に気付いてしまった。
あやつはそなたを儂の妻とし、人間の生み出した恐るべき錬金術を利用して、生き残ったエルフの力を増大させようとしている」
「どういうこと?」
「わからぬか。アドリアンは、そなたに進化の秘法を使おうとしているのだ」
「わたしに……なに?」
シンシアは首を傾げた。
自分が身体を失くしてこの世から離れていた間、勇者の少年が未曾有の冒険をくぐりぬけて来たことは知っている。
たんぽぽの綿毛のように浮遊する魂となって、それを逐一見守って来た。
だが山奥の村以外の人間の生活を知らぬシンシアにとって、形なき存在として見たことはあまりに彼女の理解の範疇を越えており、
また口数の少ない少年は、旅の間の出来事をシンシアに話すことも殆どなかったので、俯瞰で見聞きしたことの意味を把握しているとは、到底言い難かったのだ。
「言ってる意味がわからないよ。でもお願い、あの子を傷つけたりしないで!」
シンシアは思わず老精霊王に抱きついた。
「おじいさん、わたしで役に立つことならなんだってするわ。だからあの子にだけは哀しい思いをさせないで。
どうすればいいの?わたしはエルフとして、あなたたちと一緒に何が出来るの?」
「なにもないさ」
老ヴェルンドは薄く微笑んだ。
「老いた儂に、今さら子を成す力があろうはずもない。淘汰されるものは淘汰される。滅ぶものは滅ぶ。
人間とて、この星とてそうだ。形あるものはいずれ必ず失われる。
だがその中でも、残る者がいる。四本足の獣は、土の上で生き残るため二本足で立つようになった。竜は空で生き残るため翼を生やし鳥になった。
草の一本も生えぬ砂漠にも、暗闇に包まれた深海にも生命は必ず存在する。生き残るものは足掻かずとも生き残るのだ。
なれば例えこの星が滅びようとも、銀河の藻屑に紛れて生き残る生命が必ずあろうはずさ。
それがまたいずこかの星に辿り着き、新たなる文明を築くだろう」
水気の失せて乾ききった指が、シンシアの頬をそっと撫でた。
「そなたは生まれながらにして、擬態魔法の力を持っていた。それはすべてのエルフに出来ることではない。つまりそなたは「残る者」なのだ。
この星に生きて、新たなる生命の緒を繋ぐよう選ばれた者なのじゃよ。シンシア。
ついでに言うと、儂はそなたがあの勇者の少年と結ばれることを、必ずしも禁忌だとは思うとらん」
「え?」
ヴェルンドはしわがれた声をたてて笑った。
「新しき物を生み出してはいかんのならば、万物は決して進化することはないであろう。
正しいか正しくないかは、歴史が決めることじゃ。我らに審判を下す権利などない。
生み出したものが良きに働けば、それは善となる。悪しきに働けば、それは悪となる。
猿が人間に進化したのを、禁忌だと言った者がいたか?無為な戦を繰り返す人間より、森の賢者たる猿の方がよほど高等だと思わぬか。
その論理で行くと、人間の誕生そのものが禁忌と言わざるを得んな。
命の営みを肯ずるのは歴史だ。決して当事者ではない」