遺志
其の十六・拒絶
年老いたエルフが、闇を塗り込めた宙を茫漠と見つめて笑う。
シンシアはおずおずと尋ねた。
「……おじいさん、もしかして目が見えないの?」
「うむ」
老ヴェルンドは頷いた。
「齢八百を過ぎて両足が自由に動かなくなり、日の光を浴びぬようになってから更に、もう百年の間もな。
だが見えるものが見えなくなると、代わりに見えぬものが見えるようになる。アドリアンが世話をしてくれるし、苦労はない」
「アドリアンって?わたしをここに連れて来た男の人?」
「あやつの無法を許しておくれ、娘よ」
ヴェルンドという老エルフは手探りでシンシアの顔に触れ、悲しそうに撫でた。
「あやつは人間を憎み、なんとかしてこの地に再びエルフを増やそうという妄執に憑りつかれておる。
女のエルフさえ居れば、精霊王としてこの老いぼれにまだ新たな子孫を生み出す力があると信じておるのだ。
あのアドリアンもそなたと同じ、子供の頃に両親を人間に殺されたみなし児でな。
選ばれしエルフが使える擬態魔法を生まれながらに持っていたため、あやつはたったひとりだけ難を逃れることが出来たのじゃ。
エルフは死んだ。ほとんどが殺された。
生きのこった者も、魔族の王の寵姫ロザリーの死を知り、みなここを去った。
魔族に守られていたエルフさえ、人間の手に掛かって死んだのだ。この上いかに生きて行けようかと、この地に棲むエルフは絶望して海の向こうへ逃げた。
じゃがその者たちもまた、逃亡のさなか皆死んだであろう。エルフは生まれた土から離れることなど出来ぬ。そういうさだめなのじゃ。
儂は精霊王の名を冠しながら、何ひとつ守ることが出来ず、アドリアンとこうして裏切りの洞窟に身を潜め、無様に生きながらえている。
かつてこの大陸にあれほどいたエルフも、もはや儂とあやつのふたりだけしかおらぬ。
……いや、そなたを入れれば三人か」
「どうして、わたしが親を亡くしたって知っているの」
「儂はこの地でずいぶん長く生きて来た。なんでも知っておるよ。
西の山奥で、天空びとの乙女と人間の若者が恋に落ちたことも、その間に許されぬ禁忌の子が生まれたことも。
その子が贖罪のため幼くして勇者にさせられ、邪悪なる存在を倒す役割を、無理矢理担わされたこともな」
「禁忌だなんて言わないで」
シンシアはむっとして老エルフを睨んだ。
「どうしてそう決めつけるの?あの子はそんな言葉で呼ばれるような子じゃない。
わたしの、大嫌いな言葉だわ」