あの日出会ったあの勇者



東の市場の宿のはす向かいにある客専用の浴場は、石造りの狭い空間をもうもうと湧き立つ白い湯気と、熱い湯で満たしていた。

見るからに安普請の宿屋の割に、浴場の湯量は充実している。

地下から豊富な天然温泉が噴出するかのアネイルとは違い、この時代のごく一般の家庭の風呂は甕(かめ)に水をためた程度のもので、沸かした湯を使って沐浴出来るのはよほどの富豪か、王侯貴族など一部の限られた人間だ。

だがブランカの宿の浴場には、一枚石を直方体に切りぬいた見事な浴槽がしつらわれており、身を浸すに心地よい湯がたっぷりと溜められていた。

すのこを敷いた休息所のそばに井戸があるところからすると、運よく地下の温泉脈を掘りあてたのかもしれない。

雨の昼日中には入浴する泊り客も、風呂だけを使う客もいないらしく、扉を開けるとがらんどうの浴場から真っ白な湯気だけがあふれた。

よろず屋ディートの店にふたたび戻り、着替え用の服を手に入れると、ライと緑の目をした若者はまっすぐ浴場に向かった。

また戻って来たふたりを見たときの、ディートの驚いた顔。ライが「さっきはごめんなさい」と頭を下げ、すかさず若者が「新しい服をくれ。ふたりぶんだ」と言うと、ぽかんと口を開けてふたりの顔を見比べた。

定期的に木工製品を売りに来る若者との付き合いの中で、恐らくこんなことは初めてなのだろう。呆気にとられて見送るディートを尻目に、ライは大人を出し抜いてやったような喜びに、心がおかしいほど浮き立つのを抑えることが出来なかった。

宿屋に着くと、緑の目をした若者はライを表に待たせて宿の主人となにごとかのやり取りをし、戻って来た。どうやら風呂を使う許可を得たらしい。

全身雨に濡れそぼり、すっかり冷えきった身体には、扉を開けたとたん吹きつけてきた浴場のむうっとする熱さは、まるで天国の癒しの息吹のように感じられた。

「でかい風呂だ!すごいや」

生まれてこのかた、自分の家以外の風呂に入ったことはない。真昼間からこんなお湯たっぷりの浴場に来るのも初めてだ。

子供らしい昂奮で顔を真っ赤にほてらせ、ライはすごいや、すごいやと叫んですのこの上を何度も跳びはねた。

「静かにしろよ」

排水用に掘られた溝に屈みこみ、濡れたマントを絞っていた緑の目の若者はうるさそうに眉をひそめた。

「ここは泊り客も使うんだ。時間もない。身体を洗ったらさっさと出るぞ」

「お、俺、宿屋の風呂なんて初めてだ。こんな近所に大きな浴場があることも知らなかった」

「こういう素泊まりの宿を使うのは、たいてい旅人か行商人だからな。温泉街のアネイルと違って値段も割高だ。街の住民は来ない奴の方が多いだろ」

「あんた、この街の宿に泊まったことがあるのか?」

「昔、旅をしていた頃に何度かな。今はその日のうちに必ず里へ帰るようにしているから、宿の世話になることはない」

「すごいんだなぁ、あんたって」

意地を張って突っ張る態度を取ることも忘れ、ライは緑の目をした若者をほれぼれと尊敬のまなざしで見つめた。

「旅をして、宿屋に泊ったことがあって、抜群に上手い木彫りが作れて、おまけに剣の覚えまである。

まだ若いのに、すっごく世の中のことを知ってるんだな」

「そんなことねえぞ」

若者は美しい顔に苦笑を浮かべた。

「剣の稽古なんて、世の中を知らなくても出来る。木彫りが得意になったのは、村以外のどこにも行けなくて他にすることがなかったからだ。

それに、俺はついこないだまで世界には街や店や宿屋があって、欲しい物を手に入れたり泊まったりするには、対価の金が必要なんだってことすら知らなかった」

「ええ?嘘つくなよ。こないだまでって、いつまでさ」

「17歳までだ」

「へ……」

呆気に取られるライをよそに、緑の目をした若者はライがひねった方の足首を見つめ、手のひらを寄せた。

「冷えたせいで、少し腫れて来たな。この程度の怪我なら自然治癒に任せるのが一番だが、王城で色々突っ込まれるのも面倒だ。

……じっとしてろ」

言った途端、まだ湯につかってもいないのに足首に鈍い熱さが浸み込み、ライは「ひっ」と身をすくませた。

熱さと同時に、痛みが引いて行く。心地良い温もりが足から腹まで伝わり、身体の中心に血が集まるような力があふれて来る。

見下ろす足首は、燐光を浴びたようにほんのりと光っていた。

(これ、ま、魔法……?!

世界に何人かしかいない、訓練された資格者だけが使えるっていう伝説の回復魔法……!)

「あんた、何者だ?!どうして魔法まで……!」

「時間がないって言ってるだろ。急げ」

緑の目をした若者はまるで聞こえなかったかのようにそっけなく言って立ち上がると、濡れたチュニカに両手を引っ掛けてさっさと脱いだ。

目の前で惜しげもなくさらされた身体のあまりの美しさに、一瞬絶句する。

完璧なまでに流麗な線を描く鍛え抜かれた剣士の裸身は、すらりと引き締まってしかもしなやかな一本の鞭だ。

こういう人を、どこかで見たことがある。兄エレックの学校の教本に、たしかこんな美しいひとの絵が載っていた。

誰だったろう……、そうだ、天使だ。

伝説の天空に浮かぶ城に住むという、背中に真っ白な翼の生えた天使。

「あ、あ……」

「なんだ。お前、もしかして恥ずかしがってんのか?ちびのくせに」

奇妙な畏怖感に打たれて動けずにいると、若者の緑の目が面白そうに細められ、にっと冷やかすような笑顔になった。

「風呂くらいどこでもさっさとすませられるようにならなけりゃ、一人前になって世界を旅をするのは到底無理だぞ。

仕方ねえ、俺が手伝ってやる」

「わあっ、止めろ!さ、さわんなよ!」

「遠慮すんな」

「止めろって、おい、やめ……、うわあ!」

泡を食っているうちに、まるで人形の服を脱がせるように、手先の器用な若者にあっというまに身ぐるみ剥がされる。

すっかり裸になったライは子ネズミのようにぶるぶるっと震え、へっくしゅん、と盛大にくしゃみをした。

緑の目をした若者は低い声を立てて笑い、「ほら、早く入れ。風邪引くぞ」とライの頭をくしゃくしゃとかき回した。
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