遺志
其の十一・放棄
女のようになめらかな勇者の少年の喉に、鋭利な牙が深々と埋め込まれる。
「愚か者!」
シンシアは羅刹の如き形相に豹変すると、哄笑した。
「だから言ったであろう。お前にわたしは倒せぬと。
愛する女の前ではそれほどまで無防備になる。それが下等種族の愚鈍さよ!
貴様は半人半妖でありながら、なにゆえこの地上を棲みかとして生きる?ヴェルンド様の婚姻の儀式に、天空びとの血を持つ貴様は邪魔なのだ!」
「……半妖、か」
だが喉に牙を食い込まれたまま、勇者の少年は笑った。
「そうかもな」
白い首筋を、赤い血の糸がつうと伝って落ちた。
「確かに異種族から見りゃ、竜の神に護られた天空人だって立派な妖者だろう。
鳥でもないのに羽根が生えて、空にぷかぷか浮かんで生きてるなんて、どう考えてもまともじゃねえもんな。
誰だって受け入れられないものにあやかしの名を与えれば、楽に生きていける。何の変哲もない自分を正当化できるからだ。
けど、残念ながら俺はそうも行かない。お前が言う通り、俺は半分ずつの合いの子だ」
裂かれた皮膚から、更に血が吹き出すかと思いきや、そのとき突然勇者の少年の体色が薄くなった。
頭の先から足の先まで、蜃気楼のようにゆるゆると彼の輪郭がぼやけていき、シンシアの姿をした魔物は驚愕した。
たしかに牙を打ちこんだはずの勇者の体が、おぼろに消えて行く。
空間が飴のようにねじれると、辺りの光景がなだれ落ち、次の瞬間すべてがあるがまま、元通りに戻っていた。
目の前に勇者の少年が立っている。
血も流れていなければ、白鳥のようにしなやかな首には、一筋の傷跡すら存在していない。
剣を降ろしてこちらを見つめる瞳は、睥睨という言葉がまさしく似合う、冷たく不敵な翡翠色。
「時の砂って知ってるか。戦いに関わる一定の時間だけを元に戻す、魔法みたいな道具さ」
少年は片手を出して、掌に載った瑠璃色の小さな砂時計を見せた。
「本当は俺は、こいつを使うのが好きじゃない。時間は戻らないなんて三歳の餓鬼でも知ってる。いわばこれは禁じ手だ。
俺の仲間の悪魔神官の、ザキやザラキみたいなもんさ。時と生命に干渉する力は、本来は人が用いて許されるものじゃないんだ。
こないだ、あいつが死の呪文をついに手放したと聞いた。
あいつは自分が持つ唯一無二の力を捨てることで、まっとうな人間であろうとしたんだ。
だったら俺も、これはもういらない。記念として最後に一度だけ使わせてもらったけどな」
勇者の少年は時の砂を足元に投げ捨て、ためらいなく踏みつけた。
ばきんと音を立てて砂時計が割れ、瑠璃色の砂が砕けた硝子の合間から溢れると溶けて消える。
「それから、化けるんならもっと上手くやったほうがいいぜ。シンシアは自分に資格がないなんて決して言わない。
そんなくだらない言葉、髪の毛一本分の意味もないことを知ってる。
……それに」
少年の緑色の目が、酸を湛えた泉のようにすうっと濃度を増した。
握りしめた天空の剣が、柄ごと輝き始める。
「残念ながら、あいつに道案内は出来ない。ブランカまでの道なんて、どこをどう行けばいいのかも知らないんだ。
あいつを使って俺を騙そうと思うなら、もっと本物に似せるよう努力しろ。
ま、そんなこと不可能だけどな」
やがて勇者の少年の全身がまばゆく発光する。
シンシアの姿をした魔物が思わずひるんだ瞬間、天空の剣が空を一閃した。
「狼に化けたりシンシアに化けたり、いちいちめんどくせえんだよ。
いいかげん正体を現せ、物真似野郎!」
剣先から凍てつく波動がほとばしり、洞窟一体が激しい光に包まれた。