遺志
其の九・追跡
やがて勇者の少年を囲む時が過ぎ、鋼鉄化の呪文が効力を失う。
体の自由を取り戻すと、すぐさま立ち上がろうとして、彼は激痛に唇を噛んだ。
右足の下に出来た真紅の血だまり。
剣の刺し傷など久方ぶりで、痛みにどっと脂汗が吹き出したが、治癒の時間すら惜しく、少年は立ったまま傷に手をあてがい呪文を唱えた。
掌が発光し、直線状に穿たれた傷口がみるみる塞がる。
だが回復呪文は傷を治すものの、なかったことにするわけではない。突然持ち場を荒らされた神経はまだ異物反応を残し、歩くたび鈍痛を伴った。
(あいつ……シンシアのことを、我ら一族の仲間って言ったな)
ではこの突然の拉致と襲撃は、エルフ族の手によるものなのか。
かつて地獄の帝王討伐のため世界を旅した時、何度かエルフを目にしたことはあった。
だがほとんどは、森深くや辺境で隠れるように生きていて、こちらを人間と認めると美しい双眸は恐怖に歪み、逃げるように眼前からかき消えた。
血に不老不死の力をたたえ、ルビーの涙を流すエルフは人間の欲望の対象となり、乱獲が行われてこの十数年で激減したという。
幼いシンシアも人間の手によって両親を殺され、行き倒れていた所を勇者の少年と出会ったのだ。
愛する少女のあまりに不幸な生い立ちを思うと、少年の胸はいつも、鋭い杭を刺したような痛みに襲われた。
自分とまったく同じ形で、大切なものを理不尽に奪われているのに、決して笑顔を絶やすことなく生きて来た彼女。
それは、失われた者たちから託された「生きて」という願いを、ただ忠実に守り続けたからだと今なら解る。
(俺にはそんなこと、出来なかった)
たった一日で心が壊れてしまった自分に比べたら、なんと強靭な魂を持っているのだろう。汚れない生命力を持っているのだろう。
その彼女をして身代わりの犠牲とし、ひとたび命を失わせしめたのは自分だ。
だから俺はもう二度と、あいつのことを手離したりしない。
勇者の少年は足を速めると、倒れた草が作る道を追ってひたすら走った。
いつしか東には屹立した岩山がそびえ、その上空で黄金色の砂塵が渦を巻いている。
乾いた風の匂い。
砂漠だ。
やがて草が途切れ、足跡で表面を乱した土を辿って行くと、ある場所にたどり着く。
少年は小さく息を吸い、暗く口を開けたその洞穴を見つめた。
そこは裏切りの洞窟だった。