遺志
其の八・追憶
冷たい。
冷えて痺れた頬の上を、何かがするりと滑り落ち、かすかに開いた唇に流れ込む。
舌触りが柔らかく、小さな頃から慣れ親しんだ塩辛さに、それが涙だと気がついた。
シンシアは瞳を開けた。
何も見えない。
明かりひとつない。
辺りは塗り込めたような闇に包まれ、ごつごつした剥き出しの岩肌が手足を擦る。
エルフは大地の番人とも言われ、本来は土の上で眠る種族だ。芳香ひしめく花畑や温かい土は大好きだが、こんなふうに尖鋭な岩場は全く御免だった。
(硬くて冷たくて、なんて嫌な感じのする場所かしら。
こんなに居心地の悪い所で眠るなんて、あの子ならきっとこう言うはずだわ)
岩の上に寝かされるなんて、俺は魚の干物じゃねえんだぞ。
ひとりごちて、小さく微笑む。だが頬はぴくりとも動かなかった。
起き上がろうにも手足の自由が効かないのは、毒の臭気を嗅がされ全身が麻痺しているからだ。
連れて来られた時は、激痛を伴う痺れに思わず失神しそうになったが、徐々に痛みは落ちつき、代わりに横たわる岩肌の荒さがひどく気になった。
痺れているのに感覚はある。唇だけがわずかに動いて、声を出すことも出来た。
(今頃あの子、わたしを探してるだろうな)
あまり表に出すことはないが、じつはとても心優しい恋人の勇者の少年の心痛を思うと、身を切るような後悔がこみ上げ、シンシアの瞳からもう一度涙が落ちた。
(……わたしのせいだわ)
戦いが終わり、二人きりの生活が始まって、暮らしの糧を得るため幼なじみの勇者の少年が、手造りの木工製品を売りに外界へ出かけるようになった当初。
彼は食事の支度も掃除も何ひとつしなくていいから、俺がいない間、とにかく誰にも見つからないように隠れていてくれと告げた。
急いで戻るから、それまで蛙に化けて身を潜めていろと真剣な顔で言ったのを、笑って受け流したのは自分だ。
結局隠れていたのは最初の一回だけで、徐々に編み物をしながら待つようになり、食事を作りながら待つようになり、ついに扉に鍵を掛けることさえしなくなってしまった。
彼の忠告に耳を貸さずに油断したのは自分で、だからこんなふうに拉致されても、ちっとも文句は言えないのだ。
(助けに来ちゃ駄目だよ。わたしは平気だから。自分で何とかするから。
わたしのために、危ない目になんて遭わないで)
でも願うと同時に、必ず彼が自分を救出に来るだろうということも解っていた。
(……ねえ)
「……ねえ、ねえ、知っている……?」
シンシアは目を閉じた。
心の震えの赴くまま、かすかに動く唇を震わせて、子供の頃勇者の少年と一緒に何度も歌った子守唄を口ずさみ始めた。
ねえ ねえ 知っている?
お空の星が落ちるのは 可愛い子供が死んだから
どうして死ぬの 十二や三で 遊びに行くの 天国へ
死んだらお花は咲かないよ 墓に苺は生らないよ
死んでお花が咲くのなら 断頭台は 花だらけ
可愛い子供は遊ぶのが好き 親とさよなら 天国へ
ねえ ねえ 知っている?
お空の星が ほらまた落ちる
意味も把握せぬまま、なんと恐ろしい歌を歌っていたんだろうと、今さらながらおかしくなる。
そう、少年と自分はいつも歌っていた。
笑って大きく口を開けて、まるでそうすることで、ひたひたと迫る未来の不幸から目を背けようとするように。
絵本のマザーグースもフェアリーテイルも、ふたりの心を揺さぶった童話はいつも、残酷で不吉なものばかりだった。
だから慣れているのだ。
わたしたちは物語でも現実でも不幸を知っていて、だからそれ以上に、生きることがもたらす涙ぐむような喜びも知っている。
こんなことなんでもないと、きっとあの子も今頃思っているはずだ。
シンシアは自分が唱えることの出来る、たったひとつの呪文を呟いた。
体が岩肌に沿って痺れから解放され、視界がたちまち狭くなる。
あの子をこれ以上困らせないように、自力でここから脱出してみせる。