遺志
其の六・眩惑
襲い来る巨群を率いているらしい、銀色の狼の真正面へと突っ込んでいく。
雪のように輝く体毛に縁どられた深紅の眼と見つめ合うと、勇者の少年はふと奇妙な感覚にとらわれた。
たいていの獣は自分が鋭く睨めば委縮するが、巨大な狼は四肢を伸ばしたまま真っ直ぐこちらを見返し、決して視線を逸らそうとしない。
そこには明瞭な知性と、そして滴るような悪意が感じられた。
(どうする。このまま親玉をやっちまうのは簡単だが、後々群れが乱れる)
この辺り一帯は、夜間もブランカの隊商が行き交う。統率を失った獣が、手当たり次第人を襲うようになるのは目に見えていた。
だが群れを率いる頭領へ何らかの手を打たなければ、この狼たちの特攻はとめどなく続くだろう。
勇者の少年は銀狼の前まで辿り着くと、足を止めた。
周囲の狼たちを掌で威嚇すると、剣を下ろして害意がないことを示してみせる。
「よう。悪いが、ここでいったん休戦というわけにはいかないか。野暮用でちょっと急いでるんだ。
後で戻って来て必ず、続きをするからさ」
(そんなにあの娘が大事か、小僧)
少年は絶句した。
銀色の巨大な狼が首をもたげると、赤い眼がぎらりと光る。
屹立した犬歯を剥き出した獣の口が、ゆっくりと嘲笑の形に持ちあがった。
(勇者などと偉そうに名乗っているものの、貴様は醜い人間と、竜の神の奴隷に過ぎぬ天空びとのちっぽけな合いの子ではないか。
なにゆえ豊穣の秘蹟の番人、大地の精霊エルフと睦ぼうとする。身の程を知れ)
「……てめえ、何者だ」
驚愕を押さえこむと、勇者の少年は腰を落として剣を構え直した。
「言え!シンシアをどこにやった」
(知りたければ、わたしを倒してみるがいい)
「ありがてえ。それが一番話が早いな」
(勇ましいものだ。だが怖れを知らぬ気性は身を滅ぼすぞ。お前にわたしは、倒せぬ)
「勝手に決めるな!」
少年は膝を曲げてその場に屈み、剣の柄を逆向きに握り直した。
反動をつけて高々と跳躍すると、刃が銀狼の眉間に向けて烈風の如く打ち込まれる。
だがその瞬間、じゅわっと音を立てて狼の体が溶けた。
どろりと粘質に溶けた塊が人型を取り、みるみるシンシアの姿に変わる。
驚く勇者の少年に向けて、シンシアはにっこりと微笑みかけた。
「うふふ……。
ねえ、これでもわたしを倒せる……?」