あの日出会ったあの勇者



「……おい」


呼ばれていることに気づかず、ずぶぬれの膝に顔を埋めていると、もう一度「おい」と、今度は肩を荒っぽくゆすぶられた。

顔を上げると、いつのまにか目の前にあの緑の目をした若者が立っている。

雨よけの布も被らず来たのか、自分と同じくらい若者も見事に全身濡れ鼠だった。前髪が雨で貼りつき、頬や顎に大粒のしずくをつたい落としているが、気にも留めず無表情にこちらを見下ろしている。

片方の耳に嵌めた蒼いピアスから、雨のしずくがぽたぽた落ちている。濡れた瞳の隙間から伸びる睫毛はびっくりするほど長い。

何度見ても、むかつくくらい綺麗な奴だな。

でも、こいつ……、会ったばかりの俺をちゃんと追いかけて来たんだ。逃げる俺を、濡れるのも構わず追って来たんだ。

思った瞬間、ライの心の中に陣取るなにかの堅い結び目がするりとほとびて、解けた。

それを気取られたくなくて、ふんと依怙地に鼻を鳴らし、急いで顔をあさっての方向へそむけた。

「へっ、言われなくてもわかってるよ。マントを返せってんだろ。ちょっと待てよ、今から脱ぐから」

「お前、本当に家出中か」

若者はライの言葉を無視し、なおも射るような目でじっと見つめた。

「ひとりで生きて行くための仕事を探したいって話は、嘘じゃないのか」

「だったらなんだよ。さっきも言っただろ。俺にはもう帰るところがないって」

「悪かったな」

「え?」

緑の目をした若者はにこりともせず、もう一度「悪かった」と繰り返した。

「俺は、お前が出鱈目を言ってるのかと疑った。食い物が欲しくて思いつきのでまかせを言う、物乞いの餓鬼かと。そういう奴らは旅のあいだ散々見て来たからな」

「ち、違うよ。でも、腹が減ってるのは本当だ」

「食え」

若者は長い足を折ってライの前に屈みこむと、懐から紙袋に包んだ大きな塊をふたつ取り出した。

受け取ると、まだ温かいパンと香ばしく燻されたハムだ。さっきのよろず屋で手に入れたのか、雨に濡れないようにふたつとも水をはじく脂紙でしっかりとくるんである。

食欲をそそるうまそうな香りに鼻をひくつかせたとたん、示し合わせたようにお腹がぐーっと鳴って、ライは耐えきれなくなると乱暴に包みを剥ぎ、むしゃぶりつくようにして夢中で食べ始めた。

「行儀悪りぃな」

緑の目をした若者はがつがつと一心不乱に食べるライを見て、呆れたように肩をすくめたが、瞳には興味深そうな光が浮かんでいた。

「なあ。お前、本気で仕事を探したいのか」

「ああ。そうだ」

「どうして家出をしようと思ったんだ」

「言っただろ。母さんと……、喧嘩した」

ライは口ごもった。

あれを喧嘩と呼ぶのだろうか?勝手に怒りだしたのは自分だ。

「だから、もう家には帰らない」

「そうか」

若者は何の感慨もなさそうに頷いた。

「だったら俺が、お前が仕事を見つけられるよう手伝ってやってもいいぜ」

「あんたが?」

ライは呆気に取られて緑の目の若者を見た。

「だってあんた、劇団員でも興行中の旅役者でもないんだろ。それに里に帰らなくちゃいけないから、時間がないって」

「ああ。だからせいぜい付き合ってもニ時間程度だ。それだけあれば充分さ。

今から準備を整えて、俺と一緒に王城へ向かう。城内にはこの国の商工業ギルドの本部がある。お前はそこで、自分に見合った仕事を好きなだけ探せばいい」

「い、いくらこんな田舎の王国だからって、子供がそうやすやすと城に入れてもらえるもんか!」

「俺と一緒なら、入れる」

「なんでだよ!」

若者はそれには答えず、「どうするんだ。ついて来るのか、来ないのか。はっきりしろ」と眉をひそめた。

「い、行く。行くよ。でもあんた……どうしてそんなに俺に協力してくれるんだ?」

「俺も子供の頃、家出してみたかった。皆の目を盗んで村を飛び出して、誰も知らないところへ行ってみたかった。

あの頃に戻って家出することは二度とできない。お前、自分のやりたいことがあるなら今、やってみろ」

緑の目をした若者は、唖然とするライの手から中身の空になった紙包みを取り、くしゃくしゃに丸めて懐に押し込んだ。

「それに、もうかかわり合いになっちまったからな。昔、クリフトがよく言った。

人と人との出会いは運命、袖すりあうも多生のなんとか……、だ。放っておくわけにはいかない」

「なにぶつぶつ言ってんだ?お、俺、親切にしてもらったからって、お前に払う金なんかないぞ。

俺んちは母さんしかいなくて貧乏で、お前のマントだってこんなにびしょびしょだけど、弁償しろって言ったって無理なんだからな」

「確かにびしょびしょだな。まるで沖から上がったマーマンだ」

若者はライを無遠慮にじろじろ見ると、今初めて気がついたように自分の身体を見降ろし、濡れた前髪を指先で引っ張った。

「そういや、俺もだ」

「ば……、馬鹿か!あんた」

「こんなに濡れて、おまけに泥で身体じゅう汚れてちゃさすがに王城に入ることは出来ない。

どこかで洗って、着替えなきゃな」

緑の目をした若者は、視線を足元へ落としてしばし考え込むと、突然「よし、行くぞ」と、ライの手を引っ張って起こした。

強引に立ち上がらされ、ライは「わあっ」と叫んだ。腕が根元から引っこ抜かれるかと思った。決して大柄なわけではないのに、なんて力だ。

「東の市場の宿屋は風呂貸しもやってる。今からそこに行く。ディートの店に寄って新しい服を貰っていこう。

その代わり、さっきみたいな下らない物言いは止めてちゃんと謝れ。お前、これからひとりでやっていくつもりなんだろ。

感謝と謝罪がまともに出来ない奴は、自分ひとりでなんて絶対に生きていけねえぞ」

「わ、わかった」

「宿屋の風呂なんて、ずいぶん久しぶりだ。アネイル温泉みたいに湯の花があれば土産に出来るけど、ここじゃさすがに無理だな。

シンシアには悪いけど、しょうがないか」

折角だ、風呂に酒でも持ち込めたら万々歳なんだけどな、と緑の目をした若者は最初に会った時の剣呑さがまるで嘘のように、妙に楽しげに呟いている。

ライは呆れて、前方をさっさと歩き始めた若者の背中を見つめた。

……こいつ、一体なんなんだ?

どこまでもそっけないかと思うと、妙に面倒見がよくもある。まるで心を許すと決めた相手にだけ優しさを見せる、気難しくて繊細な野生の獣だ。

無表情かと思えば、ふと見せる笑顔は思いのほか懐こくて、人嫌いなのか人好きなのか、無愛想なのか素直なのかさっぱりわからない。

おかしな奴、見たこともない奴。……でも、不思議に惹きつけられる奴。

「なあ」

降りやまない雨の中、駆け足で若者の後を追いながら、ライは気付いた。急いでいないのにすこしも距離が広がらない。

さっきより、ずっとゆっくり歩いてくれているのだ。

「まだ聞いてなかった。あんた、なんて名なんだ?俺はライ。ライ・バッグウェル」

若者は足を止め、振り返った。


「俺の名前は、


…………、だ」


ライが驚いて目を見開いた瞬間、緑の目をした若者はもう前へと向き直り、ふたたびすたすたと歩きはじめていた。

四文字程度の、ごく短い名前。だがそれはこの世界で同じ名前の人間は恐らくひとりもいないだろうと思わせるような、ひどく奇妙な響きの名前だった。

神話で語り継がれる詩歌の題名のような、こことは違う遠い異世界の魔法の呪文のような名前。

こんな不思議で美しい名を、一体どこの誰が彼に名づけたんだろう?
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