遺志



其の弐・拉致





雨上がりでぬかるんだ土を踏み締めながら、勇者の少年は早足で帰路を急ぐ。

手製の木工製品を外界に売りに出かける時は、いつもこうして帰りを急いだが、急げば急ぐほど後に出迎えてくれる笑顔がいとおしくて、いつしかそれは恋人同士の甘い楽しみになりかけていた。

だから油断した。

ただそう自分を責めるしかない。

帰って来た郷に少女の姿はなく、ふたりが居を構える石造りの家は真っ暗で、作りかけの夕食から白い湯気だけが昇っていた。

どうせ隠れるのが得意な彼女のいつもの悪戯だろうと、最初は余裕を持って周囲を歩き探す。

だが次第に宵闇が満ち、虫たちの羽音と梟の歌声が協奏し始めると、少年の唇から笑みが消えていった。


どこにもいない。


燭台に明かりを入れると家じゅうをくまなく探し、名を叫びながら走り回り、棘に引っかかれるのも構わずエニシダの茂みの奥まで探したが、いない。

動悸が速まり、全身の血が冷たく引いて行く。

必死に探し回り、もうここに彼女はいないと思い知ると、少年はよろめきながら村の中心部にある花畑に戻って来た。

家の扉横に吊るしたカンテラには、火が灯されていない。

つまり、まだ暗くなる前にいなくなったということだ。

かつてのロザリー然り、その涙や血が人間の暗い欲望の対象となってしまうエルフの彼女が、ひとりで村を出て行くことなど万が一にも有り得ない。

この村の存在が何者かに知れ、自分の留守を狙って拉致された。

そうとしか考えられなかった。

額の汗を拭うと、すっかり癖になってしまった動作で、もう何も入っていない左の懐に手をやり、深呼吸を繰り返して動悸を落ち着かせる。

そこからの勇者の少年の動きは、じつに素早かった。

家に駆け戻ると腰に革袋を二つ巻き、壁に干してあるありったけの薬草と毒消し草を片方に詰める。

剣帯に佩いた鋼の長剣を鞘ごと外すと、寝室の枕元に立てかけてある巨剣と取り換えた。

天空の剣。

柄は左が直線状、右は大きく下方にねじ曲がっている重心のアンバランスな異形の剣で、刀身は細く湾曲した鍔からきらめく白刃へ向けて大きく広がり、切っ先直下が鷲の翼のように左右に分かたれている。

通常の剣より一回り以上も大きなそれを、普段持ち歩かないのは、ひとえに身を隠すように生きる自分が人里にて無用に目立つのを恐れるからだった。

剣を佩き、共に安置していた天空の盾を背担う。だが鎧は着けなかった。

魔族のいなくなった今、国境警備隊や哨戒の騎兵は、以前よりずっと軽装備になった。

全身を覆う上に、一方ならぬ輝きを放つ天空の鎧を着ると、返って目立つ恐れがあるからだ。

もうひとつの防具である天空の兜は、かつての戦いを終えた時、仲間だったサントハイムの神官と王女に渡したのでここにはもうない。

剣と盾のみを装備すると、勇者の少年は思い出したように台所のテーブルに近づいた。

空の皿と銀匙がふたつずつ。手製の刺繍入りの麻ナプキンと、パンが盛られた籠が並んでいる。

木杯が倒れて、テーブルに小さな水たまりが出来ていたのは、彼女が茶を淹れようとする最中に連れ去られたことを物語っていた。

突然の凶行にどれほど驚き、恐怖を感じただろう。恋人の助けを求めただろう。

少年はうず高く積まれたパンを掴み、立ったまま口に押しこむようにして黙々と食べた。

かつて、心のバランスを崩して失った味覚は今は元に戻り、噛めばしっかりと味を感じる。

どんなことがあっても、もう食欲を失ったりしない。

戦わなければならない時ほど、強くならなければならない時ほど、食べる。

それは戦いのさなか、まるで父のように厳しく自分を叱咤したバドランドのライアンが教えてくれた、戦士としての義務だった。

籠に入っていたパンの半分を食べ、残り半分を薬草入りの革袋に押し込むと、少年は家を出た。

軒先のカンテラを外して腰の剣帯に引っかけ、庭先にある井戸の水を汲み上げると、もうひとつの革袋に並々と詰める。

こうして全ての準備が整うまで、ものの三分とかからなかった。

勇者の少年はもう一度、今度は足取りを緩めてゆっくりと村を一周した。

そしてある場所で、ぴたりと立ち止まった。

村の西端、鬱蒼と伸びた茂みの一部が左右ぱっくりと割れ、丈の長い枝や蔓をなぎ倒した痕がある。

恐らく無法者はここから侵入し、抵抗するシンシアを無理矢理いずこかへ連れ出したのだ。

屈みこんで土の表面に手を触れると、大小の足跡がまばらにふたつずつ並んでいる。そのひとつはシンシアのものに違いなかった。

犯人は人型、裸足。そしてひとり。

目的はわからないが、自分から彼女を奪うなど、たとえ世界が滅びようとも決して許されないことだ。

(そんなふざけた奴は)

勇者の少年は狼のような眼で宙を睨み、茂みを分け入って歩き出しながら呟いた。


俺がこの手で、必ずぶっ殺す。
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