凸凹魔法陣


しゅんしゅんと言う、真鍮の薬缶から湯気の沸き上がる音。

温かい。

ひそひそと紡がれる誰かの話し声が鼓膜を揺らし、クリフトはぼんやりと瞼を開いた。

ステンドグラスがはめ込まれた、寄せ木細工の天井。教会の寝室だ。

不意にそれを隠すかのように、皺深い顔が真上ににゅっと現れる。

鷲鼻の両横に並んだ翡翠色の瞳が、羽毛のように白い眉の間から、じいっとこちらを覗き込んだ。

「死に神……」

「誰が死に神じゃ」

ブライ--勿論、それはブライだった--は気難しげに顔をしかめると、魂を絞り出すようなため息をついた。

「ようやく目を醒ましたか、クリフト。丸四日も眠り続けておったのだぞ。

このまま起きずに泥人形のように溶けてなくなるのではないかと、流石に心配になったところじゃったわい」

「ブライ様、ではわたしはこれで失礼致しますわね」

「おお、すまなんだな、カーラ殿。随分と助かった」

アリーナ付きの侍女であるカーラは、ベッドに近付いて来ると、優しくクリフトに微笑みかけた。

「おはよう、クリフト」

「カーラさん……」

「大変な怪我だったわね。でも順調に回復しているみたいで、本当によかった。

危険な魔物との戦いの中、姫様をお守り下さってどうもありがとう」

「……アリーナ様は」

「安心なさいな。我らがお転婆姫は、かすり傷しか負っていなかったわ。

よく食べてよく眠り、もう早瀬の小魚のようにぴんぴんしているわよ。クリフト、あなたの事をとても心配してる。

でもさすがに今回のことは、陛下も酷くご立腹で、残念だけど当分、貴方たち二人を逢わせる訳にはいかないの」

「アリーナ様は……!い、痛てっ」

「馬鹿者、まだ起き上がれはせん!二十針も縫ったのだぞ」

ブライが声を荒げた。

「あとニ、三日は安静にしておかねばならぬ。焦るでない。

傷が塞がれば、今度は臓腑が癒着せぬよう、嫌というほど体を動かしてもらうからの」

「はい」

クリフトは諦めたように、再びシーツに力無く頭を沈み込ませた。

「カーラさん、アリーナ様は……厳しいお叱りを受けたのでしょうか」

「そうねえ」

カーラは苦笑いを浮かべた。

「いつもの脱走とは違い、今回は実際に魔物のいる所に出向いてしまっている訳だし。

それになにしろ、髪を切ったのが悪かったわね。あれじゃ王室の式典にも当分出席できやしない。

城お抱えの髪結い師に綺麗に整えてもらったけれど、中身はおろか、今度は見た目までまるっきり男の子になってしまって」

「アリーナ様は、男の子なんかじゃない。女の子です」

クリフトは思わず言い返した。

「いつも強がってるけど本当は弱くて、とても寂しがりやなんだ。

誰かが側にいて、見守ってやらなきゃいけないんです」

「クリフト」

カーラは驚いたように目を見開き、ブライと顔を見合わせた。

ブライは肩をすくめた。

「ふん、いたずらに無鉄砲を繰り広げただけの、収穫のまるでない一夜という訳でもなかったようじゃな。

軟弱だった顔つきが、随分と変わっとるわい。

じゃがそれは、あくまで結果論。大人はな、終わりよければ全て良しという訳にはいかんのだ。

クリフト、お前にも皆に心配をかけた責任、きちんと取ってもらうぞ」

「解っています」

クリフトは神妙に頷いた。

「アリーナ様を危険な目に遭わせてしまったのは、全てわたしのせいですから。

ただブライ様、これだけはお知り置き下さい。

あの哀れな魔物……お化け鼠は、わたしとアリーナ様でなければ倒すことが出来なかったんです」

魔方陣の炎と、フィバルの願い。力を貸してくれた光。

あの日あの時、自分とアリーナの二人だからこそ出来たこと。

「まあ」

カーラがくすくすと、口許を押さえて笑った。

「姫様と全く同じことを言ってるわ。

ブライ様、やはりここは折檻よりも、国民を震え上がらせていたお化け鼠を子供二人だけで倒したという功労を、素直に讃えるべきなのではありませんか」

「むう」

ブライは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「じゃが、夜更けに城下を抜け出したという咎は咎。

城門磨きに庭園の草抜き、それから聖書の写筆は当然やってもらわんとな」

「は、はい」

クリフトは青ざめ、頬を軽くひきつらせた。

「ブ、ブライ様、それから」

「なんじゃ」

「あのう、杖でのお尻叩きは……」

「ふん!」

ブライはにやりと笑い、立派にたくわえた髭を鼻息で揺らしてみせた。

「あれはまだ物事の分別のつかぬ、愚かで青臭い餓鬼に施すお仕置きじゃ。

無知な子供の皮を脱ぎ、思慮を身につけ始めた一人の人間にするものではないわい」

「あ……ありがとうございます!」

「礼にはおよばん。その代わり、写筆はいつもの倍の十冊分やってもらうから覚悟しておけ」

「ええっ?!」

クリフトは裏返った声を上げた。

「ど、どうして?!」

「魔法書庫の貴重な書物が二冊、何者かによって破り取られているんじゃ。

心当たりがないとは、無論言わないであろうな」

(そ、それはわたしじゃない……!)

喉まで飛び出しかけた言葉は、愛しい少女の悪戯っぽい笑顔と、「わたしとクリフトの秘密よ!」という甘い囁きに押し戻され、クリフトはがくりと力を失って目を閉じた。

「……解りました」

「よい」

ブライは満足げに頷いた。

「それよりおぬし、洞窟に魔方陣を描いておったな。

所々書き間違えはあったが、非常にバランスの良い陣形じゃった。

神学も勿論じゃが、魔法学をもっと真剣に学んでみたらどうじゃ。

お前には筋があるようだし、きちんと学べば魔方陣を使わずとも、強力な魔法を発動させることが出来るようになるぞ」

「でも、わたしに攻撃魔法など……」

自信なげに首を振るクリフトに、ブライは顎をしゃくってみせた。

「魔法はなにも敵を裂き妖を断つ、攻撃のためだけのものではない。

傷を癒し身を守り、人間の内なる力を更に高める、守護魔法こそが魔導の真髄と唱える術師もたくさんおる。

それにほれ、攻撃なら牝獅子の如き生まれながらの拳聖がすぐ傍におるではないか。

男子たる者、愛する者を守りたいと思うならば、それ相応の力を身につけねばならん。

クリフト、お前にはたいした魔法の才がある。わしはそう思うぞ」

「ブライ様……」

「ふん!めったに言わぬ世辞を口にしたものだから、腹がむずがゆくなったわい」

照れ隠しに髭をぴんと引っ張って、ブライはくるりと背を向けた。
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