凸凹魔法陣



どうして、あの時わたしはあの子と離れてしまったんだろう。


いつもの愛らしい仕草、甘えた囁き、はにかんだ笑顔、なにもかもが永遠に傍にあると信じていたのに。

逢いたい。

もう一度逢うためなら、どんなことだってする。ただそう願っただけだった。

それなのに、愛しい小さな息子は再びこの手に戻ることはなく、いつの間にか自ら闇に搦め捕られ、どんなにもがいてももがいても、抜け出すことすら出来ない。


(助けて)


彼女は祈った。

(わたしはあの子の……フィバルの所に行きたいだけなの。助けて)

暗闇の中で必死に手を伸ばしても、救いの光はどこにも見当たらない。

彼女はもう一度、血が吹き出すような願いを込めて祈った。


(誰か、助けて!)


するとまるでそれに呼応するかのように、突然眩しい光が闇を破って眼前に現れる。


(おかあさん!おかあさん!)


(ああ、フィバル……)


ようやく逢えた。


喜びに満たされた微笑みが口元に浮かび、愛しくてならない我が子の魂を、ようやくこの手に抱きしめる。

母親は子供の柔らかな髪に鼻を押し付けて、幼い肌の甘い匂いを心行くまで嗅いだ。

(僕はもう大丈夫。だから行こう、お母さん)

(でもわたし、ここから抜け出せないわ)

フィバルの魂は笑った。

(大丈夫だよ、もうすぐこの闇も消えてなくなる。

神様に守られたおにいちゃんとおねえちゃんが、ぼくを救ってくれた。

さあ、ついて来て。今度は絶対に、ひとりで行ったりしないから)

(フィバル)

(さあ、一緒に……お母さん)

二つの魂の緒がくるくると螺旋を描いて結ばれて繋がり、高く舞い上がる。

(ああ、わたしは)

母親は我が子の温もりを抱きながら、意識が水のように溶けていくのを感じ、静かに目を閉じた。

(わたしは、ちゃんと幸せだった)

(そして、今も)

消えゆく視界の中、小さな二つの影がこちらを見上げているような気がして、母親は深い感謝を込めて、金色の光に向け、息子と共に最後の言葉を象った。


(助けてくれて……ありがとう)


親子の魂は今度こそ決して離れぬようぴたりと寄り添って、黄金の光に包まれゆっくりと消えて行った。




(ありがとう……)







闇が最後の力を振り絞り、襲って来る。

二人は手を繋いだまま跳躍し、憎しみに満ちた邪悪な妖魔と向かい合った。

目を見なくても、アリーナがどうしたいのか解る。

何も言わなくても、アリーナも解ってくれているのが伝わって来る。

クリフトは繋いだ手をゆっくりと後ろに振り上げると、ありったけの思いと力を込めて、少女の身体を前方へと押し出した。

アリーナは飛び上がり、まるで自分自身が一筋の閃光となったように、鋭く振りかざした足をお化け鼠の眉間に向けて、矢のように突き出した。

金色の霧に包み込まれ、視覚を完全に失ったお化け鼠の無防備な額に、少女の渾身の蹴りが、刃が吸い込まれるように突き刺さる。

魔物の巨大な体躯がぐらりと揺れ、突然襲い来る痛みに、朱い瞳孔が開かれた。

足先が滑りそうなぬめりのある毛の感触と、筋肉の繊維が断たれていく嫌な音。

アリーナは歯を食いしばってこらえながら、お化け鼠の首がねじれるまで、足を何度も何度も振り上げては突き出した。

(あと少し……!大丈夫、絶対に負けはしない)

(わたしにはクリフトがついているんだもの!)

やがて断末魔の絶叫と共に、岩のような巨体がついに崩れ落ち始める。

凄まじい粉塵が吹き上がり、耳を貫くほどの咆哮が辺りに響く。

アリーナが力を込めて右足を振り抜き、そのまま更に上空に飛び上がったのと、お化け鼠の巨体が岩場に沈み込むのは、殆ど同じ瞬間だった。

激しい痙攣と叫喚が続き、それも止むと、ようやくお化け鼠の身体はぴたりと動かなくなった。

霧に包まれた空間に終焉のあかしである静寂が、舞台に幕を張るように広がって行く。


(……終わった……!)


少年はすぐさま全力で駆け出し、少女の着地点で両手を大きく構えた。

(やっと、終わったんだ)

アリーナがゆっくりと、舞うように降りて来る。

羽根を掴むように、優しく華奢な体を抱きかかえると、少女は気恥ずかしげにはにかむ。

少年は力強く微笑んで、ようやく戦いを終えた仲間の柔らかな頬に、深い労りを込めてそっと指先で触れようとした。



その時。



今まさに息絶えたはずのお化け鼠が、その忌まわしい生命の最期の力を振り絞り、憎い敵に復讐の一撃を食らわそうと爪を高々と振り上げたことに、二人は全く気付かなかった。

「クリフト!!」

アリーナが悲鳴を上げた瞬間、もう既にクリフトの脇腹には、背後から伸びた魔物の鋭い爪が、深々と食い込んでいた。


「クリフト!


クリフトぉっ!!」


一瞬、何が起こったのかすら解らずに、少年は瞳を不思議そうにしばたたかせた。

それからすぐに、身体の芯が焼け焦げるような激烈な痛みに襲われると、全身が硬直し、咳込んだ口から大量の鮮血が溢れ出た。


「か……はっ……」
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