凸凹魔法陣
「クリフト?!どこなの?」
突然視界が閃光に包まれたかと思うと、真っ白なもやが一面に広がり、何も見えなくなる。
アリーナは言いようのない恐怖に襲われ、必死で叫び続けた。
「クリフト!クリフトぉっ!」
(まさかあのまま、お化け鼠に踏み潰されてしまったんじゃ)
(いや……そんなの絶対にいや!)
(大切な人が傍にいない淋しさなんて、もうこれ以上味わいたくない!)
知らず知らず涙が溢れ出し、ぼろぼろと滴が伝い落ちたアリーナの頬を、ふわりと何かが触れた。
(泣かないで、大丈夫よ)
「え?」
アリーナは目をしばたたいて、顔を上げた。
白くぼやけていた世界が、黄金色の輝きに満たされはじめる。
花咲き乱れる春の園を吹き抜ける風のような温かさが、アリーナの小さな身体を抱きしめ、限りない慈しみと愛で包み込む。
(ごめんね、アリーナ)
それは優しくて柔らかくて、触れたら消えてしまいそうなほど儚い囁き。
甘い、愛おしい香り。温もりに体ごと包まれている。
(これは……反省の誓い?)
アリーナはぼんやりと思った。
(……わたしはいつもこうして、抱っこでごめんなさいを言うのよ。
謝る時も許す時も、その人の目を見て、温度を感じることが大切なの。
お母様がそう言っていたから……)
(アリーナが約束をちゃんと守ってくれていたの、いつも見ていたわ)
風が揺れ、光が優しく微笑んだ。
(ありがとう。淋しい思いをさせてしまって、ごめんね)
(でも忘れないで。アリーナ、あなたは決してひとりじゃない)
(いつも傍にいるわ。忘れないで、アリーナ……)
(いや、行かないで!)
アリーナは手を伸ばし、喉が枯れるほど叫んだ。
(わたしも一緒に連れて行って!お母様……!!)
(大丈夫、いつか必ずまた逢える)
温もりがそっと離れ、甘い薫りが風と共に舞い上がり、消えて行く。
(さあアリーナ、あなたを待っている人がいるわ)
(目を開けてしっかりと手を捕まえたら、決して離しては駄目よ)
(あなたの運命は、もう目の前にあるの)
(立ち止まらないで、振り返らないで。前だけを見つめて行きなさい、わたしの娘……)
アリーナははっと目を開いた。
(眩しい)
太陽の光輪に落ちてしまったような、黄金色の輝き。
光以外は何も見えない。
(よく見ると霞んでる……なんだろう、光っているのに、もやもやと揺れてる)
(霧だわ!)
辺りに広がり、洞窟を光で包む金色の霧。
(クリフトがマヌーサを発動させたんだ)
アリーナは指先でそっと頬を撫でた。
もう消えてしまったけれど、あの温かさも香りも、決して忘れることなく心に刻まれている。
「わたしたちのために、力を貸してくれたんだね。……ありがとう、お母様」
涙が瞼を押し上げ、アリーナが堪えようと唇をぐっと噛み締めた時、金色の霧が揺れた。
「アリーナ様ぁ!」
命ある者が持つ、空気を震わせる確かな叫び声。
大きく開いたアリーナの瞳の端から、もう一筋の涙がこぼれ落ちた。
光を掻き分け、両側に割れた黄金のもやの中から、顔を擦り傷だらけにし、空色の目を輝かせた少年が、こちらに向けて手を差し延べて来る。
「アリーナ様!ご無事ですか!」
その時、立ちすくむアリーナの鼓膜の中で、鐘が鳴り響くようにある言葉が蘇った。
(……だとしたら、もし運命の相手が現れた時、わたしはどうやってその人だって解るのかしら)
(そうですね……ある日突然ふーっと、アリーナ様の前にやって来るんじゃないでしょうか。
金色の雲に乗って、騎士のように格好よく手を差し延べながら)
(金色の雲の中から、手を差し延べてやって来る)
(わたしの、運命の相手が)
「アリーナ様!」
指と指が交互に重なり合い、小さな手が繋がれると、力強く引き寄せられる。
霧の粒子なのか、燐紛を浴びたように全身を煌めかせた少年は、まるで存在を確かめるように無我夢中でアリーナを抱きしめた。
「アリーナ様、お怪我は?!」
「……だ、大丈夫」
(アリーナ、あなたの運命はもう目の前にあるの)
(目を開けてしっかりと手を捕まえたら、決して離しては駄目よ)
(……そうだったんだ。運命の人がこんな近くにいたなんて)
「気付かなかったよ、お母様……」
「え?」
クリフトが首を傾げた。
「なにか、おっしゃいましたか」
「なんでもない!」
アリーナは濡れた目尻を急いで拭った。
「それよりクリフト、やったわね!ついにマヌーサが発動したわ」
「わたしじゃない」
クリフトは自分でも気付かずに、アリーナを抱きしめたまま首を振った。
「これは、わたしの力なんかじゃないんです」
アリーナはなにもかも解っているように微笑み、少年の胸からそっと身体を離した。
「さあ、このままお化け鼠をやっつけてしまいましょう。
今のわたしたちなら、きっと出来るわ!」
「マヌーサの呪文が起こす霧とは、魔を包み込むあやかしの霧。
だから目に見えていても、実際にはこの霧は発生していないんです」
「じゃあお化け鼠がどこに隠れているのか、わたしたちにはきっとわかるはずよ。
クリフト、手を繋いで。心の目で見るのよ、一緒に」
クリフトは頷いて、もう一度アリーナの手を取った。
並んで目を閉じ、深く息を吸う。
静寂が帳のように下りてきて、自分の鼓動と大切な人の鼓動が混じり合う。
そのまま静かに佇んでいると、やがて沈黙の中からもうひとつ、ぶつけようのない怒りに我を忘れた、妖魔の荒々しい脈動が伝わって来た。
「見えたわ!行く!」
「アリーナ様!」
間髪入れずに屈み込み、両足に力強く反動を付けようとした少女の手を、クリフトは離さなかった。
「クリフト?」
「わたしも一緒に行きます。援護は任せて下さい!」
アリーナはクリフトを見つめ、ためらいなく頷いた。
「このまま跳ぶわよ!しっかり着いて来て!」
「はい!」