凸凹魔法陣


「例え女の子でも、ここはわたしが役に立ちそうな場面だわ!」

アリーナはすかさず地を蹴り、再び現れたお化け鼠の頭上目掛けて舞い上がった。

鬼火に包まれたお化け鼠は、身体全体を青白く発光させながら、地鳴りを響かせて迫って来る。

すぐ傍にいた息子の存在がが、光と共に消えたことに気づいたのだろうか、赤い眼は苛立ちにも似た狂気に血走り、激しい怒りの咆哮を上げている。

「待って下さい、間に合わない!」

クリフトは必死になって檜の棒を動かし、湿った苔を削り取った。

「もう少し時間があれば……!

アリーナ様、なんとか足止めを!」

だがお化け鼠は、粘着質の下半身をばねのように弾ませながら、徐々に近付いて来る。

おそらく巨大な身体で、この魔法陣ごと踏み潰してしまうつもりなのだ。

(くそ、こんなのきりがないや!

これじゃとても、マヌーサを発動させるほどの量なんて、集まらない!)

もどかしさにクリフトが歯噛みした、その瞬間だった。

「クリフト、これを使いなさい!」

空中でアリーナが腰の革袋を探ったかと思うと、掌よりほんの少し大きい程度の、ナイフを取り出す。

彼女の意図が解らずに、ただ茫然と立ちすくんでいたクリフトは、アリーナが取った行動に目を丸くして叫び声をあげた。


「ア、アリーナ様、何を……?!」


腰まで届くほど長い、自らの鳶色の髪をむんずと掴む。

アリーナはためらいもせず、伸びた草を刈り取るように首の横から一息に、ざくりと切り取ったのだ。

あまりの衝撃に、時が止まってしまったようにクリフトは凍り付いた。

「早くこれを魔方陣に!」

アリーナは着地すると、まるで縄でも掴むように無造作に、艶やかな栗色の毛束をクリフトに手渡した。

細い肩の上で、かわいそうなほどざん切りにされた髪がそよぐ。

それでも顔色ひとつ変えず、毅然と自分を見つめる少女を前にして、クリフトは悪い夢を見ているような気になり、ふらふらとよろめいてその場に尻餅をついてしまった。

「なにやってるのよ!早くしなさいったら!」

「な、な……だって、ひ、ひ、姫様…」

驚愕のあまり、全く言葉に力が入らない。

「お、女の子なのに、か、か、か……髪を」

「これが一番手っ取り早く、水をたたえてる物だと思うわ!」

アリーナは言い放った。

「カーラがいつも言ってるもの。髪の毛の中には、目に見えない水が詰まっている。

アリーナ様の髪は本当に水気がたっぷり、お母様ゆずりの琥珀色をした、つやつやのおぐしですわねって!

だからこれを魔方陣に置けば、きっと強力なマヌーサが発動するはずよ!」

「だ、だ、だからって何も、か、髪を、髪を切るなんて……」

「安心しなさい。髪はすぐにまた伸びるわ」

自分より頭ひとつも小さく、お城の中で我が儘放題に育てられているはずの少女は、クリフトを見上げると不思議なほど力に満ちた眼差しで、にっと微笑んでみせた。

「それに、クリフト」

「は……はい」

「お前なら、きっとこう言ってくれるはずでしょ?

どんなに髪が短くっても、わたしはちゃあんと可愛いって」

クリフトは思わず、蒼い目を見開いた。

驚きと絶望で萎縮しかけた少年の視界に、雲間からこぼれるように鮮やかな光が差し込む。

(……やっぱり、この娘は向日葵の化身だ)

(いいや、向日葵なんかじゃない。大地を照らす太陽そのものだ)

(自分以外の誰かを守るためなら、こんなにも力が湧いて来ると言う事を教えてくれる)

(どんなに苦しくても辛くても、決して諦めちゃいけないって勇気を与えてくれる)

(ぼくは……いや、わたしは)

(この娘が、アリーナ様の事が……好きだ!!)


「あ、当たり前じゃないですか!」

クリフトは立ち上がると叫んだ。

「例えどのようなお姿になろうとも、我がサントハイムのアリーナ姫様が、世界で一番可愛いに決まっています!」

「ありがと」

丸い頬を桜色に上気させて、アリーナはくすぐったそうに笑い、すぐさまきっと表情を引き締めた。

「さあ、クリフト!」

「解りました!」

クリフトは頷いた。

もう迷いはない。

絹糸のように艶やかなアリーナの髪の束を、大事そうに掌に載せると魔方陣に入り、中心に片膝を着いて、供物を捧げるように額の前に掲げる。

何か策を弄じられると気づいたお化け鼠が、鼓膜をつんざくような激しい鳴き声を上げ、更に大きく跳躍した。

「クリフト!」

アリーナが悲痛に叫ぶ。

(間に合わない!踏み潰されちゃうわ……!)

「神よ、求め訴えたる我に力を!

フロイデ・ルドレ……」

クリフトははっとして、口をつぐんだ。

頭上に閃く巨大な黒い影。

お化け鼠が自分の頭の上から、今まさに飛び降りて来ようとしている。

(呪文なんか、間に合わない)

(神よ、どうか力を!)

クリフトは両手を大きく広げ、目を閉じて魔方陣の上に身体を投げ出した。

(わたしと、わたしのこの世で最も大切なお方の一部を、貴方に捧げます)



(わたしに力を!アリーナ様を守る……、





この世界を守る、力を!!)







その時、全てが制止したような一瞬が訪れた。









(……まあ、いけないわね、あの娘ったら……。

いくらこの場を乗り切るためだとはいえ、女の子が髪を切るなんて)


……声が聞こえる。


(全く、誰に似てしまったのかしら?きっと陛下に違いないわ。

わたしには、あのような豪胆な決断力など少しもありはしないもの)

(でもよく、皆に言われたものだったわ。

アリーナとわたしは、まるで対になったさくらんぼの実のように、なにからなにまで瓜ふたつですって……)




(……誰?)




辺り一面の金色の靄の海の中で、下手くそな泳ぎのように、手をばたばたと動かしてみる。

でも何も掴めない。

(何だ?これは……)

するとどこからか、春風のような柔らかな気配が自分をくるみ、優しく微笑みかけるように、体中を温もりで覆った。


(小さな神官さん、わたしの娘をどうか宜しくお願いしますね)



(……貴方は……)




温もりが全身から両の掌の中心に駆け登り、やがて熱いうねりとなる。

意識が体と重なり合い、瞼が力強く開かれる。

自らから放射状に放たれ、辺り一面を輝かしい霞で包む、金色の霧。

クリフトは気付いた。

マヌーサが発動したのだ。
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