凸凹魔法陣
「……わたし、フィバルに嘘をついちゃった」
まだ炎の名残を留め、赤黒い残像が漂う暗がりの中で、アリーナがぽつりと呟いた。
「後悔しないなんて嘘。
今死んだらわたし、すごく後悔すると思う」
音の消えた静寂の中で、クリフトはアリーナの手を強く握り直した。
重なる掌から伝わり合う、互いの命の温度。
「人のこの命の終わりはいつやって来るか、神様以外の誰にも解らない。
だから毎日を、精一杯生きて行きましょう。アリーナ様ならきっとそれがお出来になります」
「うん」
アリーナは頷いた。
「うん、そうね」
「わたしも、解ったことがひとつあるんです」
「なあに」
「ザオリクの呪文はきっと、死者を呼び戻すものじゃなくて、まだ魂の緒が繋がっている仮死状態の人々に、意識の目覚めの手助けをする呪文なんだと思う」
(そう、一度死んでしまった者は決して甦らない)
(強く生きろと言ってくれたあのふたつの光は、もう空の向こうで星になって、決してこちらに帰って来ることはないんだ)
(……それでも、ちゃんといる)
クリフトはそっと左胸を押さえた。
(ここに、いつもいる)
「クリフト?」
「なんでもありません」
鼻の奥がつんと熱くなって、慌ててクリフトは首を振った。
「それより、すっかり炎はなくなってしまいましたね。足元に気をつけないと。
お化け鼠は一体どこに行ったというんでしょう」
「わたし、蹴りをお見舞いしてやったのよ」
薄暗がりの中、アリーナが得意そうに胸を反らすのがぼんやりと見えた。
「クリフトに言われた通り、眉間に強烈なやつを一発ね。
あいつはどうと倒れて、痛がって暴れながら一旦下がったわ。その隙にわたし、この魔方陣まで走って来たの。
きっと聖なる力のあるレミルーラの炎が苦手なのね。こんなに長い間、近付いて来ないなんて」
「と、いうことは」
クリフトは瞬きして、アリーナを見つめた。
「炎、消えちゃいましたから……」
「来るわね」
「ど、どうしましょう!一体どうすれば」
「どうもこうもないわ。やっつけるしかないのよ」
アリーナは毅然と言った。
「あれはもう、フィバルのお母さんじゃない。呪われたマンドラゴラが作り出した化け物よ。
フィバルのお母さんの魂はあの中に閉じ込められて、きっととても苦しんでるわ。
助けるためには、あいつを倒すしかない。
そのためならわたし、何度だってあいつに蹴りを打ち込んでやるわ!」
「姫様の攻撃が活かされるように、わたしがなんとかマヌーサを唱える事が出来れば……」
クリフトは考え込み、ふと顔を上げた。
「それにしても、火が完全に消えてしまったというのに、この薄明るさはなんだろう?
洞窟の中なのに、目を凝らせば辺りがはっきりと見えるくらいだ」
「夜が明けるのよ」
アリーナが指差す方向を見ると、遠くにぽかりと開いた入口から、霞のような薄紫色のほの白い明かりが差し込み、洞窟内を照らし始めていた。
「時間がないわ。満月が消えれば、きっとお化け鼠も闇に隠れてしまう」
アリーナは唇を噛んだ。
「なんとかしなきゃ」
「そうだ、呪文が発動するための、引き金になる道具かなにかがあれば」
「道具?」
「例えばさっきのレミルーラの時に使った、火薬付きの松明のようなものです」
「松明?松明って?」
「あわわ、え、ええと、そうじゃなくて」
クリフトが松明と火薬で見せかけの炎を起こそうとした事を、アリーナ姫は知らずにいるままなのだった。
「き、きっと満月で、魔法そのものの吸引力が強まっているせいもあるんでしょう。
もしかしたら鉱山に眠る石たちの生命力が、魔方陣の召喚性を強めているのかもしれない。
なにかきっかけになる物さえ魔方陣に置いておけば、呪文が多少間違っていたって、きっと魔法は呼び覚まされる気がするんです」
「魔法が発動する力の、源になるようなものね」
アリーナはぐるりと辺りを見回した。
「といってもここに、そんな力を引き出せるようなものなんて」
「今度は火薬じゃ駄目だろうな。属性が違いすぎる」
クリフトは柳眉をひそめた。
「マヌーサは霧。霧は水。
……水分をたたえたもの。
水の成す魔法の力を、発動させることが出来るもの」
「水分かぁ」
アリーナは腕を組んで唇を引き結んだ。
「水筒の水は全部飲んでしまったし、この洞窟には泉や水溜まりも見当たらないわ。
そうだ、岩場に生えた苔を削り取ってみるっていうのはどうかしら。
あれなら湿気たっぷり、水分をたくさん含んでいるわよ」
「苔……ですか」
ぬるぬると滑る、黒緑色の苔に素手で触れる事を思い、クリフトは顔をしかめた。
「あまり気は進みませんが、でもそれしかないんだろうな」
「任せて。わたしも手伝うわ」
「とんでもありません」
クリフトは首を振ってアリーナを押し止めると、ベルトに差していた檜の棒を引き抜いて、にこりと微笑んだ。
「こういう事は、男の仕事です。姫様の御手を汚すわけには参りませんよ」
アリーナは目を見開いた。
「男の仕事?」
「そう、アリーナ様は女の子なんですから。
手足や衣服が汚れる仕事は、男のわたしにお任せ下さればいいんです」
言うと、クリフトはそっと繋いでいた手を離してしゃがみ込み、檜の棒で、岩をびっしりと覆う苔をがりがりと削り取り始めた。
「……」
にわかに頬の内側に、蜂蜜飴を舐めている時のような、甘酸っぱいものが込み上げる。
アリーナはいたたまれずにクリフトの横顔から目を逸らした。
(な、何よ、急に男の子ぶって)
(自分だって細っこくて色が白くて、女の子みたいな顔をしているくせに)
(でもなんだろう、この気持ち。
胸の中でなにかが、蝶々のように動き回ってるみたいな)
(女の子らしくとか、王女らしくしろとか言われるのは、大嫌いなはずなのに)
(クリフトに女の子扱いされるのって、なんだか気持ちいい)
自分でもよく解らない甘いときめきに、幼い少女が面映ゆい表情を浮かべていると、
まるでその初々しい少年少女の初恋の萌芽に、消え去ろうとしている闇が苛立ったかのように、ずうん、ずうん、という空気を震わす足音が、再び鳴り響き始めた。
二人は顔を上げ、同時に叫んだ。
「来た!」