あの日出会ったあの勇者



走って逃げるのは、本当は追いかけて来て欲しいからだ。

誰も追って来てくれない全力疾走は、見つけてもらえないかくれんぼと同じくらいむなしく、寂しい。だから角を曲がるや否や、すぐに足を止めた。

見つけてもらいやすいようにさっきと同じ場所、同じ木の下に佇んで、でもまだ怒ってるんだぞとアピールするためしかめっつら、両腕を組んで濡れた土の上に行儀悪く座り込む。

もちろんこれは、あの綺麗な顔の馬鹿野郎を待ってるわけじゃないぞ。走り疲れたからちょっと休憩しているだけ。休憩しているだけだ。

でもどうしても追いかけて来るって言うなら仕方ない、話くらい聞いてやってもいいけどな。

それにあいつも、このマントがないと困るだろう。緑色の目をした不思議な美しい若者。里に連れを待たせてるから、急いで帰らなきゃいけないとか言ってたっけ。

あんなでかい剣を吊り下げて、伝説の精霊ルビスみたいな顔をしているくせに剣の使い手なんだ。それによろず屋ディートの手放しの絶賛によると、どうやら木彫り職人なのも本当らしい。

このブランカ城市の近くに村なんてありゃないのに、里っていったいどこのことだ?

降り続く雨に、ライの着ている服のどこもかしこもびしょびしょだった。どんな強い雨降りの日だって、今までこんなにずぶ濡れになったことはない。

服を濡らすと、母親に叱られた。ただでさえエレックの制服にアイロンをかけるのが大変なのに、泥の染みは石鹸でこすらなきゃ落ちないのよ。お願いだからこれ以上わたしの仕事を増やさないでちょうだい、ライアン、と嫌そうに睨まれた。

ライ、お願いだから邪魔をしないで。いい子にしていて。

母親の口癖。

真面目にお勉強をして、家のお手伝いをして。エレックお兄ちゃんを見習ってお利口になって、母さんをうんと喜ばせてちょうだい。

「……へっ」

ライの濡れた唇から、息切れするような舌打ちが洩れた。

「まあ、お利口ね。いい子ね」って言われるたび、胸がどきどきするほど嬉しかったけれど、おとなしくしている時に限ってそう言われることに気づいてから、「じっとしていろ、黙っていろ」という呪文のように聞こえて来て、いつしか褒められるのが好きじゃなくなった。

いい子って、母親にかまってもらえないってことなのか。ああしてほしい、こうしてほしいって言わずに我慢することが、お利口でいるってことなのか。

雨が降らないと、草も木も枯れる。この世界に生きるってことは、晴れも雨も暮らしにきちんと取り入れるってことだ。晴れの日だけじゃない、たまには思いきり雨を浴びたい。長靴をひっくり返して濡らして、泥山や泥団子を作って遊びたい。

服が汚れたってかまわない、勉強も手伝いも放り出して、後先考えず目茶苦茶に遊びたい。

でもそれじゃ、母さんの望む「いい子」にはなれない。

三つ年上の長男エレックが中等学校でテンペラ画の大きな賞を取ってから、母親の期待は一挙に兄へと集められた。絵で大成すれば、うまくいけば富裕層の貴族に強力にパトロネージしてもらえる。たった一枚の絵で、父親のいない貧しい一家の暮らしは劇的に変わる。

申請金が足りず、寮に入ることが出来なかったエレックのために、母親は毎朝日が昇るより先に起きて制服を整え、同級生の前で恥をかかないよう見た目の豪華な弁当を作った。

重いキャンバスと画材袋を持つのを手伝い、学校まで欠かさず送り迎えをした。そしてそのまま仕立て屋工場の繕いの仕事へ行き、帰りは学校に残って絵を描いているエレックを待つので、暗くなるまで戻らない。

欠伸をしながらライが目を覚ますと、家にはもう誰もいない。

台所の桶には汚れた皿が突っ込まれて溜まり水に茶色い油の玉をいくつも浮かせ、テーブルの木籠の中で渇いたパンが、居所を失くしたように半分だけかじられて転がっている。

だからライは毎朝自分で卵を焼き、自分ひとりで朝ごはんを食べ、洋服も箪笥から自分で出して着た。時には洗濯を頼んでおいた学校の運動用の短衣が、休日明けになっても洗われずに脱衣所にそのまま丸めて置かれていることもあった。

そういう時は手でぱんぱんと叩いて皺を伸ばし、服の表と裏をひっくり返して、汚れていない方を上にして着る。何日も忘れられていた運動着は熟れすぎたミカンみたいな酸っぱい匂いがしたし、身につけると湿って気持ちが悪かった。

でも、仕方ないんだ。自分に言い聞かせた。母さんは兄ちゃんのことで忙しいんだ。

毎日とても疲れてて、ちょっと椅子に腰かけたとたん、いつもすぐうとうと船をこいでる。頑張ってるんだ。一生懸命なんだ。

だから、俺はいい子にしなきゃ。

ライ以外誰もいないテーブルの端に、毎朝お弁当が置いてある。エレックとお揃いの、精一杯無理を詰め込んだような色鮮やかなその豪華さは、むしろライを寂しくさせた。

(母さん)

(俺、見た目の綺麗なお弁当なんかいらない。パンがひときれと、昨日の残りのチーズでいい。だから、朝起きてひとりきりなのは嫌だ。学校から帰って、ひとりきりなのは嫌だ)

(家に誰もいないのは嫌だ。ただいまって言える相手がいないのは、嫌だ)

(もっと、母さんと一緒にいたいんだ)

胸に溜め込んで溜め込んで、これ以上溜め込むとなにかが崩れてしまいそうな気がして怖くなったのは、土砂降りの雨のせいで朝から空が薄闇色だったせいだろうか。

心臓が喉から飛び出しそうなほどの恥ずかしさと、必死さの入り混じった声で思い切って打ち明けると、母親は目を見開き、疲れた顔を神経質そうにほほえませた。

(大丈夫よ、ライ。あなたはもうひとりじゃないわ。

今日からあなた専属の家庭教師が来て下さるの。エレックの中等学校の先生が、特別に安いお給金でご紹介して下さったのよ。

これからは学校から帰ったら、先生が家にいてくれるわ。時々は泊まり込みもして下さるそうだから、朝ごはんだって先生と一緒に食べられるわよ。

その先生ね、バドランドの出身なの。あなたの名前を聞いて、国元で英雄と謳われる王宮戦士と同じ名前だって喜んでいらっしゃったわ。よかったわねえ、ライアン。

先生のおっしゃることをよく聞いて、決して困らせたりしないように。授業の邪魔をしないで、いい子にしていてね。

たくさんお勉強をして、お利口になって。エレックのように人様から認められるなにかを成し遂げて、あなたも母さんを喜ばせてちょうだいね)

窓の外で降り続けるざあざあという雨音が、頭の中で突然洪水みたいに弾けたのは、その時だった。


違う


違うんだ


そうじゃないのに


そうじゃないのに、母さん!


気づけば椅子を蹴り倒し、テーブルクロスを引っぱり落としていた。皿が次々に床に落ちて、ばりんと砕ける音がした。

とっさに母さんがなにかを鋭く叫び、定規みたいな堅いもので手の甲を思い切り打たれた。この痛みならもう慣れてる。悪いことをしてしまった時の、いつものお仕置き。

頭を叩くと馬鹿になってしまうからって、母さんはいつも手の甲ばかり叩く。でも、痛いのは同じだ。悲しいのも。

例えば母さんが出かけようと急いでいるのに、食べかけのスープをこぼして服を汚してしまった時。退屈でつまらなくて、勉強中のエレックにちょっかいを出してうっかりノートを破ってしまった時。

どうしてお前はそうなの!悪い子ね。母さんを怒らせないで!と言っては、母親はライの手の甲をぴしりと叩いた。

母さんの気にくわないことをしてしまうのは、悪いことなんだ。母さんがしたいことの邪魔になってしまうのは、悪いことなんだ。

だったら俺がここにいることこそが、悪いことなんじゃないのか?

「馬鹿野郎!」という怒鳴り声と一緒に、涙がどっとあふれていた。「こんな家、出てってやる!」と扉を蹴って飛び出した。

母さんがどんな顔をしていたのかもわからない。振り向かなかったから。走って、逃げ出していたから。

追いかけて来て欲しかったのに。

(ライ、いい子にしてちょうだい)

いい子って、どんな?

(お利口にして)

お利口って、どんな?

(エレックのように、あなたも母さんを喜ばせてちょうだいね)


俺は一体どうすれば、兄ちゃんみたいに母さんを喜ばせることが出来る?
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