凸凹魔法陣
「き、君になにが解るんだよ」
火柱の中で揺れる、フィバルの小さな影が震えた。
「君みたいに甘やかされ、ぬくぬくと生きている子には解らない。
ぼくがどんなに……お母さんがどんなに、悲しい思いをしたのか。
こんなに近くにいるのにぼくとお母さんは、決して一緒にはいられないんだ。
もう一度やり直したい、生き返って今度こそお母さんの傍にいたい。そう思って何がいけないんだよ!」
「甘えるんじゃないわよ!」
アリーナは叫んだ。
「いい、ウサギみたいに耳をぴんと立てて、わたしの話をよーく聞きなさい。
一度死んでしまった者は決して甦らないの。
どんなに悲しくても、それが神様の決めたこの世での掟。
わたしたち生きてる者はその掟を守りながら、辛くても涙を拭いて、またやって来る明日に向かって進まなくちゃいけないのよ!
わたしだって、寂しくて泣き出したくなる時もある。
独りで眠る夜がたまらなく怖くて、ついベッドを抜け出しては、優しく迎えてくれる誰かの所へ逃げ出してしまう。
でもね、それじゃ駄目なの。
お母様はきっと、雲の上からわたしのことを見て下さっている。
お母様が安心してゆっくりと休めるように、わたしは強く心正しい人間にならなくちゃいけない。
フィバル、逃げないで。
あなたと同じように、いつかわたしも必ずお母様の元へ行く時が来るわ。
それは何十年後かもしれないし、もしかしたら今この瞬間なのかもしれない。
それでもわたしは、決して後悔したりしない。
戻れない道を悔やむより、目の前に広がる新しい道をどんなふうに受け止めていくのか。
それが神様がわたしたちに与えた、永遠の宿題なのよ!
たった一日で、クリフトはわたしにそう教えてくれたわ!」
「姫様」
クリフトは驚いて、アリーナを見つめた。
小さな横顔。
薄茶色の目は前だけを向いて、決してこちらを振り返らない。
(クリフト、起きなさぁい!)
闇夜を駆け、教会の扉を蹴り開けてはやって来る幼い少女。
(ア、アリーナ様、またいらしたのですか。
一体どうして、そんなに毎晩こちらにおいでになるんです)
(お城は退屈なのよ)
肩をそびやかし、いっぱしの大人よろしく腕を組む姿。
小さな胸に隠されていた寂しさに、クリフトはたった今まで気づかずにいた。
(それにここに来れば、何か面白いことがあるような気がするの)
(教会に面白いことなんて、何ひとつありませんよ)
(お前がいるじゃない。クリフト)
(ぼくは姫様を楽しませることが出来るような、愉快な人間ではありません)
(でもここに、お前は必ずいるから)
少女ははにかむように微笑んで、クリフトの顔を覗き込んだ。
(知らないの?クリフト。
一人より二人でいるほうが、ずうっと楽しくなれるのよ)
「あなたもお母さんも、いつまでもここに留まっていちゃいけないわ」
アリーナは静かに告げた。
「あなた達には、向かわなくちゃいけない所がある。
神様が出迎え、安らかな休息と新たな魂を与えてくれる場所。
フィバル、ここにいてはいつまでたっても、あなたとお母さんは一緒にいることが出来ないのよ。
だから行きましょう。わたしとクリフトが、お手伝いをするわ。
今なら……この魔方陣の炎があれば出来る。そんな気がするの」
「わたしもそう思います」
クリフトはそっと両腕を差し延べ、片方の手でアリーナの手を力強く握り締めた。
蒼い瞳と薄茶色の瞳が重なり合う。
二人は頷き、炎へと向き直った。
「さあ行こう、フィバル。わたしたちと手を繋ぐんだ。
こちらに向かって、両手を出して」
「い、嫌だ」
炎の中で、フィバルは怯えたように激しく頭を振った。
「どこにも行きたくなんかない。ぼくはお母さんの傍にいたいんだ!」
「お母さんも必ず君の所に行くよ。約束する」
「……本当に?」
フィバルは弱々しい声で呟いた。
「本当なの?お兄ちゃん……お姉ちゃん」
「きっと」
クリフトは頷いた。
「そしてわたしたちも、いつか必ず君達の向かう場所に行く。
だから待っていて欲しい。
その時はすこしくらい雨が降っていたって気にならないくらい、三人で一緒に思いきり遊ぼう」
「わたし、パンケーキがとっても大好きなの」
アリーナはにっこりと笑った。
「みんなで一緒に食べましょうね。いつか、必ず!」
巻き上がる炎の波の中から、フィバルが恐る恐る透ける両手を差し出す。
青白い蛍火に包まれた小さな掌の片方をクリフトが、もう片方をアリーナが握り締める。
三人が作り出す小さな輪は、やがて黄金の絹糸を紡いだように、きらきらと細く眩しい光に包まれ始めた。
クリフトはそっと目を閉じた。
(……神様)
(神様、どうか)
(フィバルの魂を正しくお導き下さい)
(そして彼と、彼の母親の輪廻転生が、今度こそ与えられた天寿を全うする、幸せに満ちたものでありますように)
(そちらの世界で、フィバルとお母さんが、再び会うことが出来ますように……)
閉じた瞼が光に照らされ、掌がじわりと熱くなる。
(ありがとう、お兄ちゃん)
囁きが風に流れ、視界が真珠色の淡い輝きに満たされた、
その時だった。
(……クリフト、強く生きろ)
不意に遠い何処かから、幻のように微かな声が聞こえる。
(わたしたちはいつも、お前を見守っている)
(クリフト、あなたはわたしの誇り)
(いつまでも大切な大切な、わたしたちの……)
光に包まれた二つの影。
手を伸ばすと遠くなる。
クリフトは叫んだ。
(父さん、
母さん……!!)
光が消えて行く。
クリフトは涙の滲んだ目を静かに開いた。
炎の失せた魔方陣の前に、幕を下ろしたように暗闇が落ち、少年と繋いだはずの片手はもうなにも掴まずに、だらんと足の横に下がっていた。
(器を失った魂は、神のもとへ旅だった。
……でも、もう片方の手がある)
クリフトは闇の中で鮮やかに浮き上がる、目の前の少女の眼差しを捕まえた。
小さな掌に確かな温もりを湛えた、アリーナが立っている。
(生きている)
息を深く吸い込むと、体の奥まで新鮮な空気が入り込んで来る。
(わたしは生きている。
アリーナ様と、共に)