凸凹魔法陣


失う事の痛みは、人より多く知っているつもりでいた。

悲しみを乗り越えたからこそ、本当に大切なものがなんなのか解っているつもりでいた。

でもそれが神の存在という、柔らかな受け皿を用意されていたために、もしも人よりその苦しみは浅く、傷は薄く治癒の早いものであったとしたら。

燃え盛る炎の中で、未だ自分の死を受け入れることが出来ずに、この世をさ迷い続ける少年。

その身を妖魔に食い荒らされ、魂すら売り渡しても、我が子をひたすら探し求める母親。


(アイ……タイ……)


(フィバル……アイタイ……)



クリフトは膝から下がみるみる力を失って行くのを感じて、必死に胸に吊したロザリオを握り締めた。

「お兄ちゃん、助けてよ」

幼い少年の瞳が暗く瞬き、闇が霧となってクリフトを飲み込もうとするようにじわじわと広がっていく。

「ぼく、これからどうすればいいの?

こんなに近くにいるのに、魔物になってしまったお母さんには気付いてもらえない。

もしぼくに温かい血の通った身体があれば、お母さんは解ってくれるんだろうか。

ああフィバル、こんなところにいたのねって、いつもみたいに笑いながらぎゅうっと抱きしめてくれるだろうか。

もしぼくに、生身の身体さえあれば。

ねえお兄ちゃん、お願いだよ。

ほんの少しだけでいいからその身体……ぼくに貸してくれないかなぁ」

「な……」

火の粉が舞い、波のように流麗な曲線を描いて立ち上る炎の中から、肘の突き出たか細い子供の腕が、ゆっくりと尾を引いて現れる。

オレンジ色の火に包まれているのに、輪郭だけは塗り込めたようにぼおっと青白い。

(お化け鼠もそうだ。青白い鬼火と共に、やって来る)

(青白い光はもうその身体に、生ける魂が宿っていない証なんだ!)


「ネエ、オニイチャン、オネガイダヨ……。


ホンノ、スコシダケデイイカラサ……」


半透明の小さな掌が開かれ、蛇が獲物に向けて鎌首をもたげるように、クリフトの心臓めがけてゆらゆらと伸びて来る。

「い、嫌だよ……」

逃げ出したいのに、岩に足を埋め込まれた彫像のように、身体が全く動かない。

クリフトは喘いだ。

「嫌だ……こんなの……」

フィバルの腕が、クリフトの左胸にずぶりと差し込まれ、

「オニイチャン、ゴメンネ……」

小さな掌が今まさに、脈打つ心臓を掴もうとした、その時。




「ちょおーっと、待ったぁぁぁ!!」




闇を一刀に断ち切り、裂け目からまばゆいばかりの光が溢れるような、逞しく健やかな生気に満ちた、少女の叫び声が響き渡る。

「アリーナ様!!」

辺りを包む霧が光に恐れをなしたように、たちまち散り散りになって消え失せて行く。

クリフトは身体の底から叫んだ。

「来て下さったんですね!アリーナ様!」

「クリフト、お前っ!」

だが、気合いと共にアリーナが振り上げた足は、炎から突き出されたフィバルの腕に向かうのではなく、

ぱっと表情を輝かせたクリフトの頬を、まるで熟練の弓使いが放った矢のように、物の見事に踵から直撃した。

クリフトは「ぐうっ」と潰れたカエルのような呻き声を上げて、後ろにもんどり打って崩れ落ちた。

アリーナは翼の生えた小動物のように、空中で一回転して綺麗に着地し、腕を組んで岩の上でのびているクリフトを、鬼のような形相で睨み下ろした。

「ア、アリーナ様……痛い……」

「クリフト、お前」

アリーナは激しく息をつき、頬を真っ赤に上気させていた。

「わたしがあんなに苦労して、お化け鼠をなんとか足止めしてるのに、一体何をもたもたしてるって言うのよっ!このノロマ!

マヌーサは、マヌーサの呪文はどうしたの?!」

「……そ、それが、その」

あまりの痛みに、瞼の裏から七色の火花がぱちぱちと飛び散り、顔がじんじんと痺れる。

けれどそれ以上に、身体が疼くような喜びが胸の奥から込み上げて、クリフトは腫れ上がった頬を押さえたまま、嬉しくてならぬように叫んだ。

「まだです!」

「馬鹿ぁっ!こんなに長い間、何をしてたっていうの!!」

「も、申し訳ありません!そのう、色々とありまして」

「色々もなにもないでしょ!今わたしたちがやらなきゃならないことは、たったひとつだけよ!」

「はい!」

クリフトは力強く頷いた。

(そうだ、わたしにはアリーナ様がついていたんだ!)

どうしてだろう。このお姫様といると、不思議なくらい勇気が湧いて来る。

まるで空っぽの身体の隅々まで、逞しく躍動する彼女のエネルギーを注ぎ込まれるように、指の先まで力が満ちる。

さっきまでの恐怖がまるきり嘘みたいに、どんな魔物だって恐れず立ち向かえるような気がして来る。

「ちょっとあんた!」

アリーナは燃え盛る炎をきっと睨み据えた。

「さっきから聞いていれば、あんたは自分が死んじゃった話で同情を引いて、その隙にクリフトの身体を乗っ取ってしまおうと企んでるのね!

わたしが来たからには、そうはさせないわよ!覚悟しなさい!」

「ア、アリーナ様も、フィバルが見えるんですか」

クリフトは驚いて言った。

「じゃあ、全部聞いていたんですか?あのお化け鼠が、この子の母親だっていうことも」

「ええ」

アリーナは頷いた。

決然とした鳶色の瞳は澄んでいて、どこにも迷いは見当たらない。

「とてもお気の毒ね。サントハイムの王女として、我が国の民がそんな災厄に遭ってしまった事を、心から悼むわ。

後ほどしっかりと供養して、二度とこのような不幸が起きないよう、鉱夫達の鉱山爆破の方法についても見直すように、お父様に取り計ってみることにしましょう」

「アリーナ様」

「でもね」

小さな拳がぎゅっと音を立てて握り締められ、少女の眼前に持ち上げられる。

「それとこれとは、全くの別問題なのよ。

自分の悲しみや辛さを理由に、誰かを犠牲にしていいわけなんかない!

あんたたちには、これからちゃんと向かわなきゃいけない場所があるの!

それをわたしが、教えてあげるわ!」
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