凸凹魔法陣
どうして、どうして、生きたいのに生きられなかったんだろう。
一体誰がこの問いに、満足のいく答えを返してあげられる?
神の使いなんて偉そうに名乗っても、わたしは本当に困っている人を、なにひとつ助けることが出来ない。
目の前で悲しそうにうつむいている小さな子供を、救ってあげることすら出来ないんだ。
「……やり直しなんて……、決して出来ないことだよ」
クリフトは唇を噛み、炎の中に佇む小さな男児に向けて、そっと手を差し延べた。
何もない場所から押し出すように、弱々しく呟いた言葉は、口にする先から消えてしまいうそうに頼りなかった。
「フィバル……、死は、いつも突然やって来るものなんだ。
そして突然やって来る死を素直に受け入れることは、わたしたち人間にはとても、とても難しい。
でもそれはどんなに偉大な聖人にも、悪業を重ねた罪人にも、いつか必ず平等にやって来るものなんだよ。
君にも、わたしにも、誰にでも必ず。
確かに神が定めた命の長さに、人それぞれ違いはあるのかもしれない。
でもそこには必ず、わたしたちに何かを教えるための意味があるはずだよ」
言葉を投げるたびに、嘘をついてしまったような鋭い痛みが胸を走る。
クリフトは口をつぐんだ。
(意味?意味なんて本当にあるんだろうか?)
(わたしは綺麗事を言ってるだけなんじゃないのか?)
(わたしをたったひとり遺して、突然いなくなった父さんと母さん)
(その事にも意味があるというのなら、わたしはそんな意味、いらない……)
「お兄ちゃんも迷っているんだね」
フィバルは幼い声で、ぽつりと呟いた。
「ぼくも解らない。一体ぼくは、何故死ななきゃいけなかったのか。
ぼくが死んだせいで、全部めちゃくちゃになっちゃったんだもの。
ぼくが死んで、お父さんとお母さんは仲良くすることが出来なくなった。
お父さんは仕事に行かなくなり、毎日お酒を飲んではお母さんを殴るようになった。
お母さんはごはんを食べなくなり、眠らなくなり、そのうち虚ろな顔をして独り言を言うようになった。
街外れの呪術師から買った、黒い表紙の不思議な本を読み始めたのもその頃だ。
やがてお母さんは、真夜中にたった独りでこの洞窟にやって来ては、ナイフで指を切り地面に血文字で呪文を描きながら、ぼくが死んだこの場所に、マンドラゴラの根を植えたんだ」
「マンドラゴラ」
激しいやるせなさが突き上げて、クリフトは頬の内側を噛んだ。
マンドラゴラの植樹なら、幼かった自分も何度か試そうとしたことがある。
魔法薬や錬金術、呪術に使われる貴重な材料であり、不老不死、死者復活の薬の原料とも言われ、一般の民が手にする事は禁じられている呪われた植物。
魔の生命を宿すと言われるその木は、成熟するとゴブリンのような醜い容貌に変化し、自ら地面から這い出して、辺りを不気味に徘徊するという。
無理に土から引き抜こうとすると凄まじい悲鳴を上げ、聞く者全てを殺してしまうと伝えられる、妖しいマンドラゴラの根。
根の先端を切り取って煮込み、抽出した液体を人型に振りかけてあやかしの呪文を唱えれば、喪った命を復活させることが出来るという。
幼いクリフトもそれを使い、父や母を蘇らせる呪術を試みようとした事が、一度はあったのだ。
(でも、無理だった。
魔導師の蚤の市でこっそり買った、すごく小さな根っこの切れ端だったけど、手にしているだけで凶々しい力が体中にまとわりつくのが解って、ただ持っていることすら辛かった)
(だから決めたんだ。呪術で父さんと母さんを蘇らせるのじゃなく、聖なる呪文ザオリクを唱える大神官となって、わたしはいつか必ず、自分の願いを叶えてみせるって……!)
「お兄ちゃんのように、生まれながらに神様の光を持っている人は、そうやって悪い力を強い心で跳ね退けることが出来るけれど」
フィバルは悲しげに言った。
「でもねお兄ちゃん、どうかぼくのお母さんを責めないで。
ぼくがいけないんだよ、お母さんを騙して、ひとりで勝手に家を抜け出したんだから。
ぼくが爆破に巻き込まれて死んでしまった時、何も知らずに甘くてふわふわのパンケーキを焼き続けていたこと。それがお母さんをものすごく苦しめた。
ぼくのせいなのに。
ぼくがパンケーキを焼いてって言ったのに。
悲しみで壊れてしまったお母さんの心はその時もう、マンドラゴラの呪いに支配されてしまっていたんだ」
「でもいくらマンドラゴラの根だといえ、こんな硬い岩場に植物を植えることなんて出来ないはず……」
クリフトは呟きかけて、はっとした。
呪いに魅入られ、魂を奪われてしまった人間が、最もよく取ってしまう手段がある。
背筋に冷たい痺れが走り、指先が震えた。
「そうだよ、お兄ちゃん」
フィバルの声がまるで、何百歳も年老いた老人のように、ひび割れて辺りの空気を揺らした。
「その通りだよ。堅い岩場に根を張れない事に気づいた、マンドラゴラの妖しい誘いに、お母さんはおとなしく従った。
どうしても、どんな手を使っても、わたしのフィバルに逢いたいの。
人間だったお母さんが遺した、最後の言葉だ。
お母さんは、お母さんは……自分の足を切り落とし、マンドラゴラの苗床にした。
マンドラゴラはお母さんの足を食い荒らして育ち、やがてはお母さんの身体そのものに巣食い、お母さんは妖魔と同化し、人の心を失った忌まわしいお化け鼠になってしまった。
お腹がすいて、餌が欲しくて人間を襲っているって皆は言うけれど、そうじゃないんだ。
あれはぼくを探しているんだよ。お母さんは今も、ずっとぼくを探している。
フィバル、パンケーキが焼けたわよって、今も暗闇の中でぼくを必死に探して続けているんだよ、お兄ちゃん」